予言者 神の啓示を受ける者、救世主、覚者、教祖
(予言者 神の啓示を受ける者、救世主、覚者、教祖)
ここで問題となるのは神は教義(言葉)から生まれる意識であるため不変ではなく時代ごとに変化が起こることである。主にそれは最初の教義が作られた時には想定していなかった問題が起こり現実的な選択を繰り返す中で変化していったものである。それは世俗化や堕落と呼ばれることもあるし実際にそうであることも多いのだが、宗教が拡大していくプロセスでは避けられないものでもある。ただその結果として神の意識も変質してしまう。そして各時代にまれに現れる宗教家や覚者たちと齟齬を生じることになるのである。彼ら世界の根源である「ゼロを司る何か」を認識する者たちは変質した教義と神の意識との差に気づくようになるため、教義の修正を試みようとするからだ。これが基本的に宗教が分派分裂を繰り返す原因であろう。世界三大宗教もまたその始まりは分派としてであった。
ただおそらく名だたる宗教家や覚者なども啓示に対する認知や言語化については完全ではなかったのだろう。またそれぞれ得手、不得手、レベル、能力、時代、環境などが異なりそれらが影響したのだろう。そのため混乱をもたらした部分も少なくない。結局、同じ現象に対して「群盲、象を撫でる」がごとく異なる主張を行ったために、信者に対しては新たな安定をもたらす一方で異教徒に対しては対立を生み出したと推察できるからだ。
後の世に混乱と対立をもたらした原因は、実体世界との中間領域にある神(意識)と万物の根源である「無を司る何か」との区別が難しかったためであろう。それは結局、意識を介してアクセス、接続するがゆえだと考えられる。理論的には三分されるのだが、認識者の視点によって一元とするか、二元とするか、三元とするかで認識が分かれてしまいやすい。ただそれらの視点から見れば必ずしも誤りではない。
例を挙げれば、
一神教タイプの神を置く宗教は、
「人」 と 「神(意識)+「無を司る何か」」
ととらえて二元化する。
多神教タイプはこの変形で、
「人」 と 「神の総体(神々の意識)+「無を司る何か」」
ととらえて二元化する。
インド哲学(二元論の立場)では神(意識)を置かずに、意識は人に属すものとして
「人」 と 「無を司る何か」
で二元化する。
「人(キリスト)」と「神(意識)」と「精霊(無を司る何か)」
と三元化する。
そして仏教やインド哲学(梵我一如の立場)は神(意識)は置かずに意識は人に属するものとして、
「(人+意識)+「無を司る何か」」
と一元化して捉える。
などの関係であろう。
また既に知られているように異教徒に対し排他的な行為を教義とする宗教も珍しくない。排他行為によってその集団の結束力が強まり信仰(暗示)の力が増すからだ。また必ずしも宗教教団の教祖の全てが万物の根源である「無を司る何か」や神の意識に接続できたわけではないと思われる。既存の教義を換骨奪胎し、権力と金品を得るための手段として利用した人物も相当数に存在するのは歴史が証明している。もちろんそれであっても新たな神の意識を作り出すのだが、本質的にはあまり意味をなさないのは言うまでもないだろう。神というのは結局のところシステムの一つにすぎないのである。
世界の根源である「無を司る何か」を認識し、そこから宗教を作り出したことは無意味なことではなかったとは思う。だが、これからの時代の要請の前ではそうした新たな宗教を作り出していく営為は過去のものとなっていくだろう。宗教の名の下に悲惨な現実が生み出されてきたのだから、いずれ人々はその教えと信仰を捨てざるを得ないときが来るのである。まだ軽く見積もっても数百年から千年ほどはその力を維持するであろうが、世界の根源や神と言ったものが解明されていくことで宗教の役割は次の段階へ向かうことになるだろう。