ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

神とは何か? 神とは教義(言語)が生成する意識

(神とは何か? 神とは教義(言語)が生成する意識)

 ここで必然的に「神とは何か?」という問いにひとつの答えが導き出される。まず啓示宗教で用いられる神に話を限定するが、神とは教義(言語)を源泉にして生成された意識であるということだ。この点を理解していたからこそ聖書には「はじめに言葉ありき」という文が書かれたのであろう。別の言い方をすれば、人が教義や戒律を生み出していく過程で生成されたそのコード全体の意識が神なのである。そして神を生み出す教義(言語)は、宗教的指導者など認知のウロボロス的限界を超えた者が世界の根源である「無を司る何か」を知覚し、啓示を受けたとして、その意識や感覚を言語化したものであると考えられる。ごく簡単に言えば人が神を生み出したのである。

 なぜ神が生み出されたかと言えばおそらく万物の根源である「無を司る何か」よりは知覚しやすいという利点があるからだろう。実際に「神」と言う言葉を用いるだけでも誰でも簡単に超越的な存在を極めてあいまいながらもイメージできるからだ。それは認知のウロボロス的限界に阻まれた「無(ゼロ)」を知覚、認識するよりははるかにたやすいと考えられる。啓示や神秘体験を全ての人間が持つことは難しい。そこで神を生み出し、神への信仰を持つことで神の意識と連結し、その神の意識が万物の根源である「無を司る何か」へ連結することを意図したのだと思われる。ただ歴史を見る限りそうした意図がどれほどの効果をもたらしたかについては疑問は残る。

 ちなみに「神に会う」というたぐいの表現は、ある個人が、①教義から生成された神の意識に接続した場合と、②「無を司る何か」に接続したものを既存の言説に従ってそれを「神」と表現した場合、③そして神の意識に接続し、そこからさらに「無を司る何か」に接続した場合、④錯覚(自然現象や薬物反応や病気)、⑤虚偽、の5パターンが考えられる。

 またおそらくは時代を経ることで社会的要因によって教義の解釈の変更がなされることで神の意識も分裂、派生していったと考えられる。当然ながら人語を介さない動物、植物、事物には神の意識は連結しえない。また一定の神に対し信仰を持つ者にとってはその神は機能し始めるのだが、その神に対して信仰を持たない者にとってはその神はほぼ機能しないと考えられる。なぜなら神は言葉や信仰を介することで連結、強化される類の意識であると考えられるからだ。言葉なき世界に神(啓示宗教の神)も悪魔も存在できないのである。そしてそうしたメカニズムは神ほどの規模ではないが呪いや幽霊などと呼ばれる現象にも同様に作用していると考えられる。呪いや幽霊、悪魔などもまた言語を解する人だけが接続できる意識の一種と考えらえる。一方で自然宗教アニミズムの場合、その神は崇拝される対象である自然現象や物体や存在が持つ意識であると考えられる。