ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

検証の必要性

(検証の必要性)

 もちろんこの論考で取り上げた副鼻腔理想解放状態(CoIFS)や鼻性脳神経症候群、アルケー「ゼロ」論、万有意識論は仮説である。実証的アプローチが不十分であるのは事実であることは強調に強調を重ねておかねばなるまい。と同時に実証的研究が行えないからと言って語ることを、考えることを、行動することをやめてしまうことは人として死を意味する。

 私が体調不良で苦しんでいた時、MRICTなどの計測機器で副鼻腔周辺を調査したことがあったが何も異常や変化が見られなかった。おそらくそれは今も変わらないだろう。ここで考えられるのは2つのケースだ。一つは私の主張や感覚が想像や妄想の産物であること。もう一つは検出機器の検出限界を越えている現象であることである。誤りを含んでいたとは言え原子論が唱えられ始めたのははるか紀元前のデモクリトスにさかのぼる。だが原子論が科学的真実として確定したのは20世紀に入ってからである。またそこまでいかなくてもそうした事例は多い。たとえば地動説、ウィルス、大陸移動説(プレートテクトニクス)、壊血病脚気の原因、……などである。仮説が提示されて、それらが検証され、確かなものとして確定されるまでには多くの時間がかかることがある。また逆に一時的にこれこそが真実だともてはやされたものが最後には否定されるものもある。こうした歴史と現在の状況を見れば、私の仮説もまた未来の検証を待つのも当然で、慎重を期すべきものであることは言うまでもないだろう。

 釈迦が悟りを開き、その概念を残して約2500年が経った。

 僅かな覚者を出しつつも宗教装置として機能してきたことで悟りの本質から遠ざかった点は否定できない。また団体の存続のために悟りそのものの探求を阻害する存在に変質した団体も見受けられる。釈迦が本当に伝えたかったのは知識や解釈という言語モデルだけではない。その境地であろう。そしてその境地を自らの手で体感、実現する時代にそろそろ入りつつあるのかもしれない。