ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

私の立ち位置

(私の立ち位置)

 私は真実を追及したいのであって、既存の宗教の護教を行ったり、新しい宗教を打ち立てたいわけではない。むしろ宗教的な意味ではこの論考は宗教の持つ力を弱めるものであろう。私はいくつかある機会の一つを提供するだけである。個人の生き方や人生はその個人に委ねられることになる。と同時に理論的には物理的に副鼻腔理想解放状態に至れない人間も存在するかもしれないとも思われる。たとえば約5%の人間には副鼻腔の一つである前頭洞が存在しなかったり、約30%の人間には副鼻腔付近に存在する後篩骨神経が存在しない人もいるからだ。もちろんそうした欠損がある場合は他の洞や神経が代替的に機能する可能性もあるため判断は難しいが、副鼻腔理想解放状態にも段階の他にバリエーションの広がりもあると推測されるのである。(なお私自身がそうしたケースに該当するかも不明である。)

 既存の宗教が持つ言語モデルを言い換えて提示することはさほど難しくはないだろう。もしかしたらそうした方が喜ばれるかもしれない。たとえば「ありのままの自己を受け入れ偽ることなく今を生きる」などのフレーズだ。だが、知識化したものを外部から取り込みそれを信条としてしまえば、たとえそれが良質のものであっても結局、教義(言語モデル)と信仰(暗示)による宗教になってしまうのである。そして宗教には宗教の力はあっても、やはり宗教ゆえの限界と矛盾が生まれるのである。その教義と信仰こそがそれらを受け入れない人々との間に不毛な悲劇を生んでいくのである。自ら支える信念や思想は自らの内側からわき出てくるものに従うべきだろう。その結果がどのようなものになるにしてもそれが最も後悔のない生き方ではないかと思う。