ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

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終わりに

(終わりに)

 もともと私は悟りを探求してきたわけではなかった。表面上は仏教徒の家に生まれたがそれは多くの日本人同様にすこぶる形式的なものにすぎない。ただ葬式や法事が仏式というだけである。しかもそれは私の祖父母や父母の話である。私個人としては宗教的には無宗教であるしそれは本書を書き終えた今も変わらない。本覚には至らずとも準悟りとも言える始覚の段階に至ってもなおである(もちろん私の場合、それは数か月に一度気まぐれに訪れるレベルのものにすぎないが……)。

 結局、悟りは仏教という枠だけでなく、宗教、人種、性別、様々な社会的身分や職業、時代、などは選ばない共通普遍の現象ということなのだろう。私も人である以上、悟りという現象に興味関心がなかったわけではないのだが、私個人としてまず取り組まざるを得なかったのは自分自身の原因不明の体調不良であった。そしてその過程で悟りの構造を解明する手がかりを得たのだから人間という存在や現象はなかなか単純ではないようだ。そして病で苦しんできた私の人生にも多少の意味があったのかもしれない。

 もちろんこの論考で取り上げたものはまだ仮説の段階にすぎない。現時点では良くて主観的哲学に留まるのも確かだ。その検証には長い時間がかかるだろうし、現状の計測科学の水準を考えれば私が生きている間にはこの論考は日の目を見ることはあまりないのかもしれない。また悟りに関する神話や幻想を打ち砕いてしまったことも影響するだろう。だが、これを書き終え、残すことができたことは私にとって喜ばしいことだ。私にとって最も重要なライフワークの一つを完成できたわけだし、書き残すことで誰かに伝わる可能性はゼロではなくなったのだから。いずれ私が死の床についた時、後悔するであろう事柄の一つが減ったのだから。

 この論考は基本的には使命感によって書かれた。もちろん全くの無欲ではないことも確かだ。だが無欲であれば、こうした煩雑な論考を書きたい、残したい、伝えたいとも思わないだろう。何より即物的な個人の利得という意味ではこれほど損なものはない。もちろん後悔はしていない。むしろ誇らしい。が、これは自らに相当な負担を強いる行為であったのも確かだ。だがおそらく世のほとんどの人々にこの論考が顧みられることはないだろう。そこまで私は楽観主義者ではない。また言論の自由、コンピュータやソフトウェアなどの電子機器、インターネットなど制度やテクノロジーの恩恵があってこそ、この論考は世に出るのである。比較的、安価でかつ匿名で発表できる機会がなければこの論考は永遠に世に出なかったとは思う。執筆中は常にそうした「個の利得を追求せよ」という悪魔の、そしてウロボロスの声との戦いでもあった気がする。このあまりに巨大な、全宇宙を覆いつくさんばかりの巨大なウロボロスとの戦いに勝利することができたかどうかは分からない。だが書き終えることはできた。後は託すしかない。

 これは未来への手紙である。

 この手紙がいつか誰かに届き、そして意味あるものになることを願って筆を置くことにしたい。

20188月 与野半悟


検証の必要性

(検証の必要性)

 もちろんこの論考で取り上げた副鼻腔理想解放状態(CoIFS)や鼻性脳神経症候群、アルケー「ゼロ」論、万有意識論は仮説である。実証的アプローチが不十分であるのは事実であることは強調に強調を重ねておかねばなるまい。と同時に実証的研究が行えないからと言って語ることを、考えることを、行動することをやめてしまうことは人として死を意味する。

 私が体調不良で苦しんでいた時、MRICTなどの計測機器で副鼻腔周辺を調査したことがあったが何も異常や変化が見られなかった。おそらくそれは今も変わらないだろう。ここで考えられるのは2つのケースだ。一つは私の主張や感覚が想像や妄想の産物であること。もう一つは検出機器の検出限界を越えている現象であることである。誤りを含んでいたとは言え原子論が唱えられ始めたのははるか紀元前のデモクリトスにさかのぼる。だが原子論が科学的真実として確定したのは20世紀に入ってからである。またそこまでいかなくてもそうした事例は多い。たとえば地動説、ウィルス、大陸移動説(プレートテクトニクス)、壊血病脚気の原因、……などである。仮説が提示されて、それらが検証され、確かなものとして確定されるまでには多くの時間がかかることがある。また逆に一時的にこれこそが真実だともてはやされたものが最後には否定されるものもある。こうした歴史と現在の状況を見れば、私の仮説もまた未来の検証を待つのも当然で、慎重を期すべきものであることは言うまでもないだろう。

 釈迦が悟りを開き、その概念を残して約2500年が経った。

 僅かな覚者を出しつつも宗教装置として機能してきたことで悟りの本質から遠ざかった点は否定できない。また団体の存続のために悟りそのものの探求を阻害する存在に変質した団体も見受けられる。釈迦が本当に伝えたかったのは知識や解釈という言語モデルだけではない。その境地であろう。そしてその境地を自らの手で体感、実現する時代にそろそろ入りつつあるのかもしれない。

 

結論 まとめ

結論 まとめ

 

1 「物理現象としての悟り」とは副鼻腔理想解放状態(Condition of Ideal Free Sinus=CoIFS,コイフス)の維持である。またそれは東洋的修行法で言われるチャクラや上丹田の開発を指したものであった。そしてそれは相矛盾した事象の共存を許容する認識や行動をその個人もたらすと考えられる。またそうした性質ゆえに言語構造(特に自然言語)の欠陥と相まって長きにわたり満足できる説明がなされてこなかった。

 と同時にその個人は生物学的、社会学的に一個人であることは変わらず、食欲、性欲、睡眠欲なども併存し、そういったものが滅却するわけではない。そこは教典類に残されているとおり、そうしたものにとらわれることがなくなるのである。そこに従来の伝統的解釈の誤解がある。

 

2 副鼻腔理想解放状態は段階やサイクルがある。それらは悟りの段階として説明されてきたことと共通するものが多い。また仏教に限らず神の啓示や神秘体験、インスピレーションと呼ばれる現象との共通点もある。

 

3 初期仏教では釈迦をはじめ「物理現象としての悟り」を得た者はあったものの、覚者の出現確率が低すぎた。そのため仏教教団が成立、発展する過程で「物理現象としての悟り」が「宗教装置としての悟り」に変質、形骸化し、分派していった。ただし時折、覚者と思われる者も現れている。だが、それも教典を基礎とする仏教全体の再構築、脱構築までには至らなかった。

 

4 釈迦の悟りは理論的には信仰の有無とは独立した物理学的、生理学的現象である。そしてあまたの仏教教団の運営維持は他の宗教と同じく教義(言語モデル)と信仰(暗示)に依存している。こうした仏教集団のあり方は仏教本来の目的であった悟りの本質とは関係が薄くなっていると考えられる。また同時に教団には逆に悟りの解明や覚者の出現を阻もうする社会的メカニズムが内在している。


5 悟りの論理モデルは宇宙と個体との統合であるが、宇宙と個人をつなぐのは意識であると推測される以上、悟りの論理モデルを成立させるためにはアルケー「ゼロ」論と万有意識論が必要と予想される。またこの二つの論理を持ってすれば従来、難解とされた宗教の根幹教義を読み解くことができる。

 

5'(追記) 

また上記の項目5と関連するが、いわゆる「万物の法則(ToE=Theory of Everything)」は論理モデルとしては「0 satori 1」およびその拡張である「1 satori 0 satori ∞」と記述することができる。もちろん現代物理学の定義上、「無(無を司る何か)」や意識や心を対象としていないため、現状の定義のままではおそらく万物の法則(ToE)の完成はそれらの領域への拡張がない限りは解明されないとも予想される。


6 啓示宗教の神とは教義(言語)から生成される意識空間であると考えられる。

 

7 人間をはじめとする主体には、原則としてその主体の根源を認識できないという「認知のウロボロス的限界」が存在している。そして例外的にその限界を超える現象が悟りや啓示と呼ばれる現象であり、副鼻腔理想解放状態であると考えられる。またその認識から無(無を司る何か)を万物の根源と考えたと推察される。

 

8 「物理現象としてしての悟り」は副鼻腔理想解放状態の維持であるため、伝統的に行われてきた従来の教典の学習や修行ではほとんど効果を期待できない。副鼻腔に対し物理的にアプローチする方法が個人的には有効であったもののサンプルとしては極めて少なく長い年月をかけた追試が必要である。結局、副鼻腔理想解放状態を得られるかどうかは現状の自然に近い状態では運の要素が大きいと思われる。ただしより解明が進み、悟りの物理構造(それはすなわち副鼻腔理想解放状態の構造)が明らかになれば、いずれは外科手術的なアプローチをはじめとして人工的な手段で比較的簡単に悟りが得られる時代が来るかもしれない。

 

付録 悟り(副鼻腔理想解放状態)を体験する方法(始覚まで)

付録 悟り(副鼻腔理想解放状態)を体験する方法(始覚、見性まで)


 最後に悟り(副鼻腔理想解放状態)を体験する方法を簡略ながら述べておきたい。

 物理現象としての悟りをもたらすのが副鼻腔理想解放状態であると推測されることは既に述べた。紹介する方法もいずれも副鼻腔への何らかの影響を与えるものであるが、率直に述べればこれらは全て特効をうたうものではない。何より現時点での経験からは運の要素が強いと思われる。

 副鼻腔理想解放状態を初めて経験することは準悟りと言える始覚の段階に入り始めたことに相当すると思われる。この状態を体験すること自体がどの程度の頻度(難易度)なのかは著者自身もデータがない以上不明である。基本的には相応に困難かもしれないし、もしかしたら一過性の始覚までの体験は実はさほど難しくないのかもしれない。さらに言えばその状態を維持し続ける本覚こそが極めて難しいことは言うまでもない。だがたとえ始覚であっても不覚であり続けるよりは有用であることも確かであろうし、この始覚を体験せずには本覚への道も論理上ありえない。そこで微力ながら私が始覚に至った方法を紹介して本論考を終わりにしたい。(もちろんあくまでこれは現時点での参考情報にすぎない。もし詳細を望む声が多いのであればそれは別の機会に譲ることにしよう。)


(原則)

 以下に紹介する一連の方法を継続して行い、副鼻腔理想解放状態が訪れるのを待つというものだ。いずれにしても運の要素が強く、決してトレーニングや修行ではないということを理解したうえで行うこと。概念としては修行ではなく調整(コンディショニング)や治療に近い。習慣化することが望ましいが、習慣化したからと言って効果が高まるわけでもないことを理解すること。またどれも比較的負担は少ないがそれでも過度になれば身体にダメージを与えることもあり得るので心身に異常を感じたらすぐに中止し様子をみること。

 経験上、たとえ始覚の状態となってもそれは長続きはしない。早ければ数分から数時間ほど、また入浴や睡眠を取ることで元の状態に戻ってしまうだろう。そのため繰り返しその状態の再現を試み、学習または馴化(いわゆる慣れ)を繰り返すことで本覚に至ると考えられる。どの程度持続できるかはまさに本人の身体的素質と運の要素が強いと思われ、通常は数年~生涯にわたるアプローチが必要になると思われる。

 そして、これらの方法が唯一絶対のものではないことを理解すること。不要であればそぎ落とし、自分にあったものを取り入れ改良していくのもよいだろう。場合によっては全否定するのも全く問題がない(なお当然ながら議論の対象となるのは論理やメソッドである。互いの人格や人間性を尊重するのはこれもまた言うまでもないだろう)。あくまでここに書き残す方法は参考情報にすぎない。これらの方法論にこだわり決して縛られてはならない。また何より心身に異常を感じた場合はすぐに中止すること。


(判断基準)

 額や眉間の圧が消えるか緩和し、開放感があること、また前頭洞や篩骨洞などに空気が断続的に流入する感覚があること。そして前頭部を中心に清涼感が継続する。呼吸が楽になり、視界が開ける感覚になることもある。変化のきっかけはほとんどないがまれに何かが取れたり、抜けたり、ズレたりする感覚もある。また起床してからの経過時間も関係することが多い。朝よりも午前、午前よりも午後、午後よりも夕方、夕方よりも夜、夜よりも深夜の時間帯の方が状態変化が起きやすい。また屋外で活動している時よりも屋内で一人で安静にしているときのほうが変化が起きやすい。

 間違いやすいので注意が必要だが、逆に前頭部、額、眉間、副鼻腔に圧を意識的・無意識的にかけて余計に悪化させないようにすること。良い状態は快適で楽である。呼吸が苦しかったり、頭の鈍重感や絞られるような圧迫感がある場合は悪い状態である。実際には二分法で分けられるものではなくその時々の状況で感覚もアナログ的である。この状態の判別はどちらよりの状態でも無痛であるため繰り返し感覚を覚え、現在の自分の状態を知ることができるようになることが望ましい。特に副鼻腔内に断続的に空気が流れ込む感覚の有無は一つの指標になるだろう。


(方法)

1 アレルギー対策(空気清浄機、掃除機)

 物理現象としての悟りは副鼻腔理想解放状態(CoIFS)によってもたらされると考えられる。そのため、日常生活を送る空間の環境を整えることでその状態の再現がなされやすい。驚かれる読者も多いだろうが経験的には座禅や呼吸法などのいかにもそれらしい修行法よりも掃除による室内の空気浄化が努力と結びつきやすかった。ただこれは初めて副鼻腔理想解放状態を経験したあとの話でもあるので未経験の人間に対してどの程度の効果があるかは不明であることも申し添えておく。

 掃除機は性能がかなりバラつきがあるが排気フィルターがFEPAフィルターなど高性能なものが望ましい。空気清浄機の性能的にはよほどの安物でない限りはどれを使用しても同じと思われる。重要なのは設置位置。普段よく過ごす場所(たとえばイス)の近くに置く。要はフィルターを通して出てきた清浄な空気に触れやすい場所にすればよい。たとえばワンルームのような部屋なら椅子の左23メートル横やエアコンの下などに設置するイメージである。


2 歯磨き、フロッシング、扁桃のケア

 12回~3回。物理的刺激か病巣感染が原因として疑われるがその理由は不明である。直後に変化を感じることも少なくないので何らかの神経反射の効果があるのかもしれない。また扁桃(口蓋扁桃)の汚れのケア時に同様の変化を感じたことがあった。能動的なアプローチではこれが最も効果があったが、それでも基本的には運の要素が強い。


3 ストレッチ、姿勢

 特に立位体前屈の姿勢によるストレッチが有効。また姿勢としては大腿部に前腕部を乗せて前傾姿勢で軽く体重をかけるポーズ(いわゆる考える人のポーズに似ている)も有効である。仰臥位であればうつぶせで顔を正面に挙げる姿勢(ビーチ・フラッグスのスタート姿勢に似ている)なども有効である。これらが有効な理由としては、普段と異なる姿勢が副鼻腔の状態を一瞬とは言え微細に変化させ、呼び水的に副鼻腔理想解放状態へと導くことがあるためである。まれに副鼻腔内にたまっていた粘液が流れ落ちる感覚や、逆に空気が流入する感覚があることもある。


4 マッサージ

 前頭部、額、眉、眉間、鼻の横(頬骨)あたりにマッサージをすると効果がある場合もある。指で軽く押したり、触れたり、爪で軽くひっかく、などの刺激を与える。これも改善する頻度は少ないので、気休め程度に。


5 気圧(天候の変化、標高差を伴う移動、気圧の変化を伴う乗り物(新幹線、エレベーターなど))

 台風や低気圧などの天候変化や標高差を伴う移動や、乗り物による気圧変化がきっかけとなることもある。気圧差についてはそれほど大きな変化は必要がないことが少なくない。710hpaほどの微細な気圧変化でも起こりうると考えられる。ちなみに標高10メートルの上昇で約1hpa低下する。標高差50メートルから100メートルの移動をし、数時間過ごすと変化が起こることもあった。気圧変化をもたらすことが意図であるので移動手段は問わない。徒歩、自転車、バイク、自動車、電車などどれでもよいだろう。ちなみに東海道新幹線で東京から静岡あたりまで乗車をすると頻繁な気圧変化があるせいか体験することもある。ただしこれらの方法も必ず起こるというものではない。


6 食事

 食事に関するものは主に排便へのアプローチである。排便直後に神経反射があるためか変化を感じることがあるためだ。基本的には何を食べても良いが、暴飲暴食は避け、偏った食事も避けるべきであろう。整腸作用を促す食物繊維やヨーグルトなどの乳酸菌を意識的に摂取することが望まれる。食物繊維は押し麦、オートミールなどで比較的手軽に摂取することができる。また理由は不明だが一定の食品そのものの刺激が変化を起こすこともあった。比較的安価で入手しやすいものを挙げると炒めるタイプの焼きそばや冷やし中華などの麺類である。


7 入浴

 これはメソッドではないが入浴は状態を変化させやすいので注意として記述した。おそらく温度刺激が何らかの影響を与えていると考えられる。良化することも悪化することもあるのでその点を覚え、注意しておけばよい。これはシャワーや入浴を増やせばよいという話でも、逆にシャワーや入浴をしなければよいという話でもない。基本的には入浴は一般常識に従えばよい。


8 三角禅(Triangle-Zen

 三角禅(Triangle-Zen)は私が考案した禅、瞑想法の一種である。様態としてはダイナミック(動的)、スタティック(静的)、ブリーディン(呼吸法)の3つがある。ただこれは基本的には軸、下方向のチャクラや丹田(第1~第5チャクラ、下丹田中丹田など)の開発を意図するものであって、悟りに関するチャクラ(第6、第7)、上丹田を対象とはしていない。あくまで参考情報として付記するものである。習得そのものは容易だと思われるが対人的な実技指導が必要と思われるため概略は電子書籍版のみに記載した。なお別に機会を設けることができればより正確な形でお伝えしたいとは考えている。

 

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(中略 詳細は電子書籍版をお読みください。)

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 ちなみに蛇足であるが努力の選択に関する関係をモデル化すると以下のようになる。発揮されるパフォーマンスをPef(=Performance)、その個人が持つ資源(才能と環境)をR(=Resource)、努力量をQ(=Quantity)、努力の発揮率をE(=Exertion)、努力に用いるメソッドをM(=Method)、潜在能力の上限をP(=Potential)とし、また扱う数は正の自然数MPの約数でなければならないという条件とする。この条件で関係をモデル化すると、

 

 E=M/P

 Pef=R*Q*E

 

日本語で言えば、

 

 努力の発揮率=用いるメソッド/潜在能力の上限

 パフォーマンス=資源*努力量*努力の発揮率

 

という関係になる。

 MPの約数であるという前提条件から努力の発揮率が100%にするにはPを示す潜在能力の上限と合致したもの値、すなわちその個人に最適化されたメソッドではならないということであり、定形化、形式化したメソッドはそれが公約数的な性質を持つがゆえに、努力の発揮率を抑制してしまうのである。またP素数の場合、その個人はそうした既存の定形的なメソッドが使えず、その潜在能力が開花せずに終わってしまったり、その個人のみに通じる独自のメソッドによって開花する極端なタイプがいることも想像されるからである。これがメソッドを型や技として強く押しつけてしまう問題点であろう。何らかのメソッドや型を究極至高のものとして考えるのは危うさがあるのである。


 余談であったので、話を三角禅に戻そう。

 これらは日課として行うほうが望ましいが、休息日を取ったほうがいいこともあるので決して無理はしないこと。またやや効果は落ちるが何かをしながら(テレビ鑑賞、ゲーム、食事、会話、仕事、etc)でも問題はない。ただその際は時間オーバーに注意すること。やりすぎれば体の負荷がかかりすぎてケガの原因になるのは言うまでもない。また我慢比べのたぐいでもないので、痛みや違和感などを感じたらすぐに中止、休憩すること。特に腰や股関節に負担をかけるため腰痛などの持病を持つ人は慎重に行うこと。

 

9 投薬

 持病の関係で副鼻腔の粘液を流動化させやすい薬(ムコダイン)を処方されていた。どの程度の効果があるのかわからないが何らかの影響も考えられるので参考情報として記載する。用量は1500mg12回(朝晩)であった。

  

【追記】

10 グライディング(gliding)

 グライディングとは私が考案した聖胎長養(いわゆる悟後の修行とも言われる)のための身体ワークである。考案した時期がいわゆる初関を超えてからの時期になるため順序として前後してしまい、今まで全く悟りの体験がない方が始覚を目指すためのメソッドとしてどの程度有効なのかがわからないため現時点ではその存在のみを記すに留めたい。これは世間一般の常識的観点で言えばいわゆる簡易体操的なものに分類されるものだが、より厳密な定義づけで言えば体操ではなく休養(積極的休養法:active resting)にあたる。グライディングはその見た目とは裏腹にやや難しく、直接かつ継続的な指導でないと習得が難しい傾向があると思われる。機会があればいずれ公開したいとは考えている。

 

悟りの側面3 終末論について

(悟りの側面3 終末論について)

 また伝統的な宗教であっても終末論の類は宗教装置の典型例であろう。人が生物種である以上は何らかの要因が重なれば絶滅することはありえるし、より時間的、空間的スケールが大きくなれば星や宇宙が崩壊することもありえる。だが終末論の言うようなある日突然に超越する存在が現れ、ある者には救いを、またある者には裁きをもたらす、という言説は教団の権力を強化維持するための社会装置にすぎない。

 超越する存在は基本的には世界の根源となるシステムにすぎないので、そこに基礎づけられた実体世界には干渉できないと考えられる。干渉してしまえば、それは主体を持つ何らかの存在となり世界の根源たりえなくなるからだ。有の存在もウロボロス的限界に阻まれているように「無を司る何か」もまたウロボロス的限界に阻まれているのであろう。

 結局、キリストの再臨をはじめとする終末論のたぐいは、後の教団が創り出したもので、キリスト本人が得た啓示とはあまり関係がないと思われる。しばしば終末論者は天災や戦争などの災厄を自論の論拠として結びつけ人々の不安を煽り、自らの権力を強化しようとする。だがそれら災厄の犠牲者は罪人と断ずることはあまりにも無理があるだろう。彼らは災厄を免れた人々と同様に普通の人々であるからだ。災厄の犠牲者は運が悪かったか弱者であったというだけで、彼らが悪として処断され浄化されたわけではないのである。こうした終末論の言説は反証不能性につけこみ宗教装置として悪用した事例であろう。偉大な宗教者であっても大なり小なりこうした宗教装置の力を利用してきたことは忘れるべきではないだろう。宗教が宗教である以上はこうしたものも含むのである。

 宗教や宗教団体が全て害悪であり無意味であるとは思わない。だがそれらが真の意味で人々や社会に役立つものとなるには前提がある。それは本質的に欺瞞、矛盾、腐敗、堕落などを蓄積的に生み出すことを避けられないシステムを持つ宗教や宗教教団が透明性を確保し速やかかつ適切な自浄作用を維持できるか否か、である。

 本来、悟りの根幹である副鼻腔理想解放状態の維持(それは東洋的伝統の文脈で言えば第6、第7チャクラが通り、上丹田ができることだが)さえできれば、教義や戒律や信仰(=暗示)は一切不要と考えられる。教義や戒律や信仰は人々に概念を伝え残すことはできたのだが、それはやがて形骸化し、歪曲、腐敗し人を支配、統制していく原因でもある。人を救うはずの宗教が人を苦しめてきた悲惨な歴史を我々は直視しなければならない。

 

悟りの側面2

(悟りの側面2

 こうした論考から言えるのは、釈迦が到達した悟りの境地と彼自身が残し現在に伝わる教義や宗教は基本的には別物であり独立したものであることが推測される。別の言い方をすれば釈迦の教えを守り、大切にするあまりに、釈迦が伝えたかった悟りの本質を見失ってきたとも言える。

 結局のところ宗教教団は仏教に限らず、教義と信仰、そして布施と功徳(救い)という権力システムに依存する。教団と結びついた多くの言説、慣習やシステムは教団を維持運営するために発明された社会装置であって、釈迦本人が得た悟りの本質とは無縁のものであると考えられる。つまり宗教化し集団を成すことは必ずしも悟りの本質と直結しない。出家をしなければならない、というものでもない。念仏を唱えれば救われる、というものでもない。たとえそれらが困窮する民衆を多少なりとも救おうという意図があったにしても残念ながらそれらはただの逃避、暗示であろう。そしてそれも単なる教団関係者の生活手段や集金装置と化してしまえば堕落以外の何者でもない。悟りや救いを目指すのは一つの目標であるがそれすらもとらわれるべきではない。なぜなら悟りや救いを目指すという行為も我欲の発露であって、それがやがて腐敗につながるからだ。

 結局、自らの人生は自らが何らかの形で収入を得て生計を立てていくべきであろう。もちろんそれは布施という形であってもよいし、そうしたあり方を否定するものではない。布施で生活してもよいのである。が、現状、特に日本のほとんどの仏教関係者はそのあり方に大きな欺瞞を抱えているのは否定できない事実であろう。彼らがもし本当に悟りを目指すのであれば、伝統や権威、パフォーマンスにすぎない苦行をはじめとする既得権を全て捨て、社会の底辺に身を起き、そこで始めて布施を求めながら悟りを目指すべきであろう。富む者が天国に入るのは難しいというのはキリストの言葉であるが同じことが該当してしまう仏教関係者は少なくないだろう。何より釈迦本人が今の変質した仏教の在り方を見たとき、それらが似て非なるものに堕してしまったことを嘆くであろうことは想像に難くない。