認知のウロボロス的限界
(認知のウロボロス的限界)
認知のウロボロス的限界とは、「原則的には、主体の根源はその主体によって認識できない」というものだ。
自らの尾を食べる蛇(ウロボロス)は遥か古代からその図が伝えられてきた。様々な解釈がなされてきたがおそらくこのことを概念化し伝承しようとしたと考えられる。
なぜなら、
自らを食べるヘビ(ウロボロス)
=自らを食べる行為は自らを否定、破壊する
=自らを否定し、破壊すれば、当初の目的である食べるという行為が成立しなくなる
=つまり、自己を否定、破壊することでなそうとする一定の行為は、その否定、破壊行動ゆえに成立できない。
という図式で成り立っているからだ。
たとえば心(意識、魂)であれば心を知るためには、心を対象化(客観化)させるために自己と心を分離し解体(破壊、否定)しないとならないが、その破壊、否定的行為ゆえに、心が何であるかを知ることができないのである。肉体と心は基本的には不可分であるから、観察のために肉体と心を分離しようとすれば肉体は死に至り、心もまた消えてしまい観察できなくなるからだ。
それは比較的現代ではサルトル(Sartre)が『存在と無』のなかで、認識する主体は認識する対象となりえない、とした見解と似ている。だが、こうした考えは古代インドのウパニシャッド哲学にも見られるようにおそらくは古くから世界各地で概念化されていたとは考えられる。なぜなら世界各地にウロボロスの類似概念が残っているからだ。