ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

色即是空、空即是色の論理モデル

(色即是空、空即是色の論理モデル)

 大乗仏教の経典である『般若心経』は仏教の根本が短い文章でまとめられているとされる。般若心経を中国語に訳したのは大唐西域記で有名な唐代の僧、玄奘であるが、この経典の中で最も有名なのが「色即是空、空即是色」の言葉だ。これはたった8文字ではあるものの仏教の説く一元論が表現されたものである。様々な解釈がなされているが基本的には「色」は「人や物質などの実体」で、「空」は「実体がないこと」を意味するとされる。また「即是」は「すなわちこれは」の意味である。そして直訳すれば「色即是空」が「実体には実体がなく」、「空即是色」は「実体がないものは実体である」となる。英語では「form is emptiness, emptiness is form」などに表現されている。まさに三位一体説と同じく矛盾した表現である。そのため理解に困難を伴い、実際のところ様々な飛躍した解釈がなされてきたのだが、こうした論理もアルケー「ゼロ」論と万有意識論の論理モデルでは簡単に説明できる。

 ここで重要なのは「即是」の解釈である。これはおそらく最も初期の経典が書かれた時点で解釈に誤りがあったのだろう。「即是」は日本語で言う助詞の「は」や英語で言うbe動詞にあたる。数学で言えばイコール(=)である。だが、これが決定的な誤りであったのだろう。おそらく釈迦が「色」と「空」の関係性を表現するために意図したのは日本語の「は」やbe動詞、イコール(=)ではなく、接続や結合(connect, combine)を意味するものであったと考えられる。


従って従来は、X=, Y=空とするとして、


 X≠Yのとき、X=Y また Y=X である。

 

と矛盾していた記述だったのだが、このイコール(=)ではなく何らかの接続関係を示す記号を用いればよいのである。ここでは一例として「(接続) 」や「(connect) 」という表記を用いるとすれば、

 

正しくは、

 

 X≠Yのとき、X (接続) Y または Y (接続) X である。

 (英語で表記すれば、X≠Y, X (connect) Y Or Y (connect) X であるし、

  数学的には、X + Y = Y + X とも表記できるだろう。)

 

と表記されるだけなのである。

 ちなみに表記についてはイコール(=)の代わりに接続(connect)を意味するものであれば何でもよいのである。例えば悟り(satori)によって実体世界と世界の根源がつながるのでそうした表現に敬意を表して、


 X≠Y, X satori Y Or Y satori X

 

と表記しても良いのである。

 また全く同じことであるが、ここで使われた X とY を世界の根源である「無を司る何か」を0、実体世界を1として、

       X=1,Y=0 とすれば

       XY である(つまり 1≠0)

 そして実体世界と世界の根源は悟りの境地によって連結されるため、その関係を

       1 satori 0  または  0 satori 1

ともシンプルな式で表現できるだろう(繰り返すが決して、0=1 や 1=0 ではないことに注目してほしい)。

 

 つまり、現代的な日本語で言えば、般若心経の「色即是空、空即是色」は「実体世界は世界の根源とつながっており、また世界の根源は実体世界とつながっている」というだけなのである。そしてそうした表現を己の心身で体感できるのが悟りの境地なのである。また、なぜ世界の根源が「空(ゼロ)」とされたかと言えば、認知のウロボロス的限界の考察で述べたように、「無」つまり「認識できないもの」が主体や世界の根源であるという見地に立つからである。そして仏教ではその万物の根源である「無(厳密には「ゼロを司る何か」)を「空」と呼んだのであろう。

 何らかの存在が存在として成立するためには、その前提として無が必要となる。なぜなら無、厳密には「ゼロを司る何か」が基準となるからこそ有が成立するからだ。有だけの世界は原理的には存在しないのだが、通常、我々の常識的な認識で言えば逆である。物体であれ精神であれその存在が有ることを自覚する有のみの世界に身を置いている。そこではむしろ無を認識できない。有だけの世界に見えるのはまさしくその認知をする主体が有の世界の住人であるからであり、そう見えるのは無を認識できないゆえに起こる知覚、認識であろう。だからこそ認識できない無こそ世界の根源とする考えに至ったと考えられる。

 もちろんそれは悟りの境地がもたらしたと思われる理論モデルであり、まだ仮説にすぎない。このことは繰り返しになるが述べておく必要はあるだろう。

 

追補:禅問答 狗子仏性(くしぶっしょう)

 またこうした観点に立てば代表的な禅問答「狗子仏性(くしぶっしょう)」を読み解くこともできるので傍証としたい。

 「狗子仏性(くしぶっしょう)」は前述した「隻手音声」と同じく代表的な禅問答である。これはある修行僧の弟子が師である趙州和尚に以下のように質問したものである。そこでは弟子が「犬にも仏性があるのでしょうか?」と尋ねたが、師(趙州和尚)はただ一言「無」と答えたものである。

 この禅問答は「無」が二重の意味で用いられていることに気づきさえすれば容易に読み解くことができる。表面的はここで用いられた「無」は「ない」という意味であった。そのため前提として、全てのものには仏性が宿るという仏教の教義と矛盾するために理解に困難が伴うものとなっている。

 だが趙州和尚の真意はそうではない。ここで用いられた「無」は万物の根源である「無を司る何か」を意味していると考えられるのである。そうであれば趙州和尚の言う「無」は妥当なものになりうる。なぜなら犬も存在である以上は当然ながら万物の根源である「無を司る何か」とつながっており、また仏性とは個の限界を超えて万物の根源である「無を司る何か」と連結したときに生まれる性質を示すものであると考えられるからだ。そこで「無」つまり万物の根源と答えることで従来の教義の通り犬であっても仏性を持っていることを示したのであろう。要はこの「無」は日常言語の「ない」と万物の根源を示す「無を司る何か」をかけたものであり、悟りの境地に達していれば、この問答の真の意味が理解できるようになっている検算のようなものなのである。

 ではなぜこのような不親切で回りくどい表現をしたのか? それはこうした知識を表面的に覚えるだけでは意味はなくなってしまうためであろう。悟りを知識ではなく意識や感覚として体感することが目指すべき目標であったからこそ、こうした禅問答の直接的な解答や解説は師からは伝えられることはなかったのだろう。

 こうした禅問答を残したことからも趙州和尚はじめとする数少ない高僧は悟りの境地に達していたことは確かであろう。ただその方法論は同時に欠点も伴っていた。特に彼らの死後はそれが顕著となる。彼らは不立文字、以心伝心という言葉で代表される言語や記号で考え伝えようとすることを半ば放棄したために弟子たちが誤った解釈をし、教えの本質を歪めてしまったことを防ぐことができなかった。それは後に頓智や揚げ足取りのような表面的な言語パズルと化して本質を失った中国禅が滅んでしまったことが何よりの証左であろう。

 

表 狗子仏性の「無」が持つ意味の二重性と仏性の意味と解釈

表現

意味

解釈

「無」の答え1

無い(ない)

犬は仏性を持っていない。
全てのものは仏性を持つという教義(一切衆生悉有仏性)と矛盾してしまう。

「無」の答え2

万物の根源である「無を司る何か」

犬もまた存在である以上、万物の根源である「無を司る何か」とつながっている。
したがって犬も仏性を持つ。

仏性

仏としての本質、仏になるための原因

実体世界と世界の根源である「無を司る何か」と連結している体感(意識や認識)。
なお通常は人であっても、動植物、事物であっても認知のウロボロス的限界により連結はしていない。
ゆえに通常、犬はポンテシャルとして仏性は持つが悟りはまだ開いてはいない。