ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

終わりに

(終わりに)

 もともと私は悟りを探求してきたわけではなかった。表面上は仏教徒の家に生まれたがそれは多くの日本人同様にすこぶる形式的なものにすぎない。ただ葬式や法事が仏式というだけである。しかもそれは私の祖父母や父母の話である。私個人としては宗教的には無宗教であるしそれは本書を書き終えた今も変わらない。本覚には至らずとも準悟りとも言える始覚の段階に至ってもなおである(もちろん私の場合、それは数か月に一度気まぐれに訪れるレベルのものにすぎないが……)。

 結局、悟りは仏教という枠だけでなく、宗教、人種、性別、様々な社会的身分や職業、時代、などは選ばない共通普遍の現象ということなのだろう。私も人である以上、悟りという現象に興味関心がなかったわけではないのだが、私個人としてまず取り組まざるを得なかったのは自分自身の原因不明の体調不良であった。そしてその過程で悟りの構造を解明する手がかりを得たのだから人間という存在や現象はなかなか単純ではないようだ。そして病で苦しんできた私の人生にも多少の意味があったのかもしれない。

 もちろんこの論考で取り上げたものはまだ仮説の段階にすぎない。現時点では良くて主観的哲学に留まるのも確かだ。その検証には長い時間がかかるだろうし、現状の計測科学の水準を考えれば私が生きている間にはこの論考は日の目を見ることはあまりないのかもしれない。また悟りに関する神話や幻想を打ち砕いてしまったことも影響するだろう。だが、これを書き終え、残すことができたことは私にとって喜ばしいことだ。私にとって最も重要なライフワークの一つを完成できたわけだし、書き残すことで誰かに伝わる可能性はゼロではなくなったのだから。いずれ私が死の床についた時、後悔するであろう事柄の一つが減ったのだから。

 この論考は基本的には使命感によって書かれた。もちろん全くの無欲ではないことも確かだ。だが無欲であれば、こうした煩雑な論考を書きたい、残したい、伝えたいとも思わないだろう。何より即物的な個人の利得という意味ではこれほど損なものはない。もちろん後悔はしていない。むしろ誇らしい。が、これは自らに相当な負担を強いる行為であったのも確かだ。だがおそらく世のほとんどの人々にこの論考が顧みられることはないだろう。そこまで私は楽観主義者ではない。また言論の自由、コンピュータやソフトウェアなどの電子機器、インターネットなど制度やテクノロジーの恩恵があってこそ、この論考は世に出るのである。比較的、安価でかつ匿名で発表できる機会がなければこの論考は永遠に世に出なかったとは思う。執筆中は常にそうした「個の利得を追求せよ」という悪魔の、そしてウロボロスの声との戦いでもあった気がする。このあまりに巨大な、全宇宙を覆いつくさんばかりの巨大なウロボロスとの戦いに勝利することができたかどうかは分からない。だが書き終えることはできた。後は託すしかない。

 これは未来への手紙である。

 この手紙がいつか誰かに届き、そして意味あるものになることを願って筆を置くことにしたい。

20188月 与野半悟