ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

座禅や瞑想の意図するもの

(座禅や瞑想の意図するもの)

 ただ比較的、座禅や瞑想などのように静かな環境で一人安静に過ごすことは副鼻腔理想解放状態を得やすいことは確かである。これはストレスを減じ自律神経を整えることで副鼻腔付近の腫れを減らしたり、もっと直接的にアレルギー物質などが少ない場所で過ごすことが僅かではあるが効果的であるからだろう。また内観的な態度は自らの感覚を自らの肉体の各部に向けやすくなり、非常に認知しにくい副鼻腔の変化を対象化して言語化させやすくすることも一因だろう。そして副鼻腔理想解放状態を体験するだけならまだしもその維持を続けるには今の状態が閉塞しているのか解放しているか認識できることは重要な要素の一つだからだ。仏教でしばしば説かれる「自分自身をみつめろ」というのはそう言った意味もあると考えられる。また座禅や瞑想のようにほとんど動きのない状態は比較的に副鼻腔理想解放状態を維持しやすいからだ(ただし、そうしたレベルは入浴や睡眠を取ればたいていは元の状態に戻ってしまうほど脆く儚い持続性にすぎない。座るなど安静な状態でなければ悟りの状態に入ることができない、維持できない、というのではまだレベルが低いとも言える。)。

 釈迦自身が八正道の中に瞑想(ほぼ座禅)を組み込んだことからもそれはある程度は有効ではあろう。だが、統計的な見地で言えば瞑想や座禅に取り組んだ総数に対して悟りを開けた者の割合は非常に少ないと言わざるを得ない。一言でいえば効果が薄く運の要素がかなり強いのである。また座禅系の修行は基本的には下丹田中丹田、軸といったより下方向のチャクラや丹田の養成を意図するものであって、第6、第7チャクラや上丹田の養成にはそもそも向かないのである。

 そして座禅特有の姿勢(結跏趺坐、半跏趺坐)も現代人には向かないし場合によってはそうした無理な姿勢がケガの原因になるだけである。そもそもがそうした姿勢を楽に取れるような柔軟性や身体内部の筋力を得るには数年は必要になり、そこからやっとスタートとなる。

 座禅は単なる我慢比べでもストレッチでもないのである。またそれは正座も同様である。現代人で言えば、一人で静かに椅子に座るなどその個人がもっともリラックスする姿勢で過ごせば座禅と同様程度の効果があるとは思われる。当然だが時折、立って体を伸ばしたり、休憩したり、トイレや飲食するのも全く問題はない。もちろんそれは悟りはほとんど開けないない程度の効果でしかないことも強調しなければなるまい。座禅とはそういうものである。禅寺の静謐な雰囲気は悪いものではないがそれは文化的なファッションであって、禅寺に参禅しなければ意味がないというのは誤りであろう。現代で言えば、そうしたメソッドのたぐいは大都会にあるアパートの一室で用いることができるなど日常生活に寄り添ったものでなければ、ただ遠くから眺めるだけのショーケースに入った文化遺産にすぎないのである。

 また、経験的にこうした伝統的方法は始覚の段階を越えてから意味を持つものが多い。そこにすら至らない者がそうした修行をすることはほぼ無意味に近い行為と言える。おそらくその点がごく例外的な覚者を除いて座禅に効果が見られなかった原因であろう。座禅は悟りを維持することにはわずかには役立つのだが、全くその段階に至らない者にはほぼ効果がないと推測されるのである。

 座禅の目的は決して苦痛や苦行を与えて精神を鍛えるというものではないのである。あの修行法が意図しているのはおそらくは副鼻腔理想解放状態が訪れやすい状態を作り、ほぼ運任せで待ち続けること、そして副鼻腔理想解放状態が訪れた時の感覚を覚え、対象化し、状態の把握や言語化ができるようにすることである。