ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

副鼻腔理想解放状態(CoIFS)

(副鼻腔理想解放状態(CoIFS))

 次に副鼻腔理想解放状態(Condition of Ideal Free Sinus=CoIFS,コイフス)である。

 これは私個人の経験的な話であるので慎重を期すべきだと思うが、副鼻腔理想解放状態(CoIFS)になると周辺の脳神経系に影響を与えるためか、いわゆる悟りの境地に入ると推測される。なぜならその状態では悟りに関して示された多くの言葉や説明が自分の感覚を基礎にするゆえに理解できるようになるからである。そうした体験から副鼻腔の理想的な解放状態が悟りをもたらすと考えたのである。これを書いている私自身もまだその驚きは残るのだが、科学的な見地で悟りという現象を述べれば、これだけ短い言葉で悟りを還元的に示すことはできる。また副鼻腔理想解放状態(CoIFS)は伝統系な東洋的修行法の見地で言えば、チャクラ(第6、第7)や上丹田と呼ばれる額、眉間、前頭部の開発とほぼ同義であろう。ほぼと言ったのは悟りの境地をもたらす副鼻腔理想解放状態は脳や神経系の開発で言えばほんの一部にすぎないためである。人間全体の能力のポテンシャルを考えれば悟りもまた無数にある人間の能力の一つとして位置づけられると考えられるからだ。

 もちろん副鼻腔理想解放状態(CoIFS)という概念は私の体験から得られたもので現段階では個人的な仮説にすぎない。そのことに留意しつつも話を進めていきたい。

 さて、副鼻腔理想解放状態に至る以前の状態では痛み、つまり痛覚が全く伴わない。日常生活にも問題は生じない。そのこともあり極めて知覚しにくく、その状態に至って初めて知覚できる特徴がある。それは数回経験した程度では現在の自分の状態がその状態なのか否かすらも認識できないほどである。そしてまた何らかのきっかけで副鼻腔理想解放状態(CoIFS)になってようやくそれまでの状況が非常に苦しい状況にあることを認識できるのである。逆に言えばおそらく非常に多くの人々が常に不快な状況にあることに気づかないまま日常生活を送り、そして一生を終えていくと考えられる。なお私がその事実に気づいたのは通常の状態と副鼻腔理想解放状態の間を何度も行き来する経験を経たからであろう。

 こうした現象や特徴は悟りに関する説明と合致することが多い。たとえば人が誰でも悟りうる仏性を持つという説明は、副鼻腔は多様なバリエーションがありつつも人間である以上は基本的には共通して保持しているのだから、悟りのポテンシャルを持つということと一致する。また前述した私の説明は悟りを得た者が語る各種エピソードとも共通しているのだが、問題なのは物理的な変化が必ずしも大きくないためか現代のMRICTなどでは検出できない問題があるのである。副鼻腔理想解放状態に至っても多少表情に変化があるとしても基本的には肉眼に見える器質的変化は見られない。だが、感覚としてはそれは天と地ほども違ってしまう。しかもそれが悟りと呼ばれたものの文脈で語られてきた身体感覚である。それらは無上に高雅で清浄でクリアな感覚をもたらすことは確かではあるが同時にその状態の言語化に困難を引き起こす。有り体に言えば「体は全く変化がないように見える、にも関わらずこの実感は何だ?」というようにである。おそらくは数ミリ程度の物理変化によって副鼻腔近くの圧迫されていた脳神経系が解放されることでホルモン分泌などにも変化をもたらすとは考えられるのだがそれらもまだ推論にすぎない。

 いずれにしてもその快適な感覚とは裏腹にその現象を適切に述べることが極めて難しい特徴がある。それは特に副鼻腔理想解放状態に至る前(つまり程度の差はあれ鼻性脳神経症候群の時に)痛みがほぼ全く感じないことが発見や認識がなされなかった最大の理由と考えられる。なぜなら人は通常、痛みをはじめとする神経の感覚異常によって知覚や判断を行うのであって基底状態そのものの良否を認識できないからだ。基底状態の良否が判断できるのはその基底状態から脱し相対化できた時だけである。そのため人は痛みはないが苦しいという状態を認知することが極めて不得意であると考えられる。

 おそらくほとんど全ての人間は通常、基底状態そのものが程度の差はあれ病的(鼻性脳神経症候群)な状態であるものの、無痛であるがゆえに問題なく一生を送ることができていると考えられる。ただ当然ながら基底状態そのものの異常(鼻性脳神経症候群や仏教的には無明と説明されてきた意識、感覚)には気づかなかったのだろう。その一方でごくまれにそこから脱して副鼻腔理想解放状態へ至った者がいたと考えられるのである。そして現代ほど医学や解剖学の知識が普及していなかった時代では、副鼻腔理想解放状態に至った者やそれを維持できた者はなんとかしてこの意識や感覚を残そうとして、それが悟りや啓示として捉え認識したのだろうと思われるのである。

 人の知覚や認知は脳神経系の基底状態を基礎とするため、原理上は脳神経系の基底状態そのものを直接的には知覚、認知できない、というウロボロス的な認知の限界の中で存在している。(別の言い方をすれば、何らかの主体を持つ存在は、その存在を成立させている根幹を認識しきれないのである。なぜなら認識しようとすればその存在を崩壊、否定してしまうからだ。それはたとえではあるが生きたまま自らの体を解体し調査しようとするようなものだからだ。当然ながら自らの体を解体すれば死んでしまうし、死んでしまえば自ら調査ができなくなる。人は「異常なし」の基本状態が本当に異常がないのかを認識できない、またはそれが極めて不得意なのである。)そのため脳神経系の基底状態の知覚、認知を行うには代替的または相対化ができる方法を用いるしかない。だが、全ての主体のアプリオリな根幹が知覚・認知である以上、知覚・認知を担う脳神経系の基底状態そのものが変化し相対化できないとそのウロボロス的限界を超えることができないのである。そしてその限界を超える現象が古来、悟りや解脱と呼ばれるもので、悟りに関するチャクラや丹田が成立した状態であり、そして副鼻腔理想解放状態であると考えられるのである。

 自然言語アプリオリな事柄(無根拠に成立する事柄)に対して根拠を問われることで言語機能不全に陥った。それと同じようにアプリオリである人間の自我や意識、それと同時にそれらを支える脳神経系に変化をもたらす副鼻腔理想解放状態は、言語を含めた認知の根幹を揺るがすものであるがゆえに、悟りを言葉で説明することを極めて困難にしたと考えられるのである。