ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

頓悟と漸悟

(頓悟と漸悟)

 頓悟と漸悟の観点では始覚から一気に正覚に至るのが頓悟で、始覚からゆっくりとしばしば凡夫の状態に戻りつつ正覚に至るのが漸悟であろう。歴史的には頓悟か漸悟かと論争が行われてきたが、副鼻腔理想解放状態の観点で言えばそのどちらも正しく人によって頓悟よりのコースになるか漸悟よりのコースになるかの違いでしかないと思われる。またそれはおおまかに二分しただけの話にすぎず、実際の悟り(正覚)に至る軌跡は悟った者同士であっても千差万別であろう。そして正覚という概念もまた相対的概念である。肉体的な限界が影響すると考えられるからだ。また理論的、歴史的には頓悟に近いケースであっても途中で何らかの要因で副鼻腔理想解放状態を失い、以後取り戻すことができなかったケースもあり得るだろう。それは人間である以上、起こり得る現象である。副鼻腔理想解放状態は悟りの境地をもたらすものではあるがそれが物理現象である以上はそうしたケースも起こりえるとは推測できるのである。

 頓悟と漸悟にはそれぞれ欠点もあると考えられる。まず頓悟の欠点だがこれはあまりにも意識、感覚が瞬間的に一変してしまうため自らの感覚で捉えきれず言語化できないという点だ。そのために神などの絶対存在を設定してその文脈で語られる可能性が強くなると考えられる。才能という意味では始覚の段階でそのまま一気に安定・持続できる頓悟型のほうが実社会で活躍できるとは思われる。歴史的に頓悟の派が残り漸悟の派が消滅したことを考えれば実社会での生存能力、闘争能力はどちらが上回るのかは想像しやすい。なぜなら漸悟のプロセスはどうしても凡夫と聖の間で揺れ動き、その結果として実社会で能力を発揮しにくくなるからである。ただその反面、悟りに至る現象を幾度も自らの体でなぞるために言語化し、他者に伝えることには長けてくるとは言える。物理現象としての悟りが解明されていく時代においては頓悟か漸悟かという論争は過去のものになっていくだろう。

 ちなみにこうした分析で著者自らを分類すれば、著者のタイプは漸悟型で始覚の段階と位置づけられるだろう。長い時間はかかると思われるがこれからは悟りという物理現象がより一般化を始めて共有される時代になっていくと思われる。そうした段階に入ればもはやこうした分析も一般的なものとなるだろうし、その段階に至ってようやく帰納法的なアプローチで悟りの解析が進んでいくことになるとは推測される。