ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

修行

(修行)

 もう一つ悟りという概念と関係が深いものがある。それは修行である。そして仏教での修行とは経典の学習、戒律の順守、座禅や瞑想などの東洋的身体トレーニングである。これらによって悟りの境地を目指すとされたわけだが、修行という概念は主に戒律の順守と東洋的身体トレーニングを意味することが多い。また前述した悟りは言葉や知識では伝えられないとする伝統から、仏教の宗派にはよりそれらの修行を重視するものも多い。たとえば禅宗など一つの大きな派を形成しているし、密教の中には呼吸法などの身体修行が含まれる。これは釈迦が悟りを開くまではヨガに類するトレーニングや断食などをはじめとした苦行を行っていることも関係が深いし、仏教の根幹の一つに瞑想や座禅も位置づけられているからだろう。また社会的に通常の社会から離脱の条件として厳しい修行が要求されたという社会的メカニズムも否定できないだろう。

 釈迦自身は苦行の果てに悟りは得られなかったという発言は残しているものの、仏教の教義そのものには修行が重要なものとして位置づけられている。そのため修行、言い換えればトレーニングの果てに悟りは得られるという主張や思想が相当に根付いているのは事実であろう。例を挙げれば枚挙に暇がないが、日本の天台宗で行われている千日回峰行などはそうした一例だろう。

 だが不思議なことにそうした身体的に非常に厳しい修行を経ても悟りを開いたことになるのだろうか?という問いは禁じ得ない。なぜなら出現確率を考えれば悟りという現象はそうした線形な現象ではないからだ。にもかかわらず一定の苦行をやり遂げさえすれば悟りが開かれるというのはあまりにも短絡的で奇妙である。最も厳しい修行とされる千日回峰行であっても完遂することは大変に難しいと思う反面、それが悟りに直結するかどうかははなはだ怪しいと言わざるを得ない。それを成し遂げた個人は確かに大阿闍梨などの称号を得ることができるかもしれないが、それは対外的なパフォーマンスにすぎないのではないかという疑問はつきない。それは修行という行為に対する信仰にすぎないからだ。

 おそらくこうした厳しい修行は宗教現象にすぎないのであろう。対外的にパフォーマンスを行い、大阿闍梨などの称号を付与することで聖性を作り出し、それにより集団の内外で影響力を生み出す社会システムにすぎない。集団内には修行と信仰の不足という理由で統制が可能になり、苦行をやり遂げた個人は一定の行を成し遂げたことで自己肯定感は高まり、同時に既定路線の否定さえしなければ教団内の地位は安定するからだ。内面はどうあれ既存の言説をなぞり、装いさえすればそれに関わる者たちは聖者であれ末端の修行者であれ集団の一員の資格を獲得できる。また対外的には悟りの説明の難しさ(言語機能不全)を盾にすることでその集団の正当性を得ることもできるからだ。結局、過酷な修行は悟りの本質とは無関係の社会現象なのであろう。