ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りは言葉では伝えられないとされた理由4 教団外からの社会的圧力

(悟りは言葉では伝えられないとされた理由4 教団外からの社会的圧力)

 悟りを開いた者が少ない状況では、悟りに関する言説を収集し、蓄積していくことは重要な研究ステップである。だが悟りを開いた者はなかなか見つからない。その理由の一つに教団外部からの社会的圧力があると考えられる。これが第4の理由であろう。

 たとえばある人物が悟りを開いたと主張したとしよう。しかし、おそらく周囲の人間は疑問を持つだろう。こうした懐疑的態度は基本的には正しいものだ。過去におびただしい数の詐欺師がいたし、これからもいるからだ。そしてこれらの詐欺師は増えることはあっても減ることはないだろう。ただそれと同時にその問いが悟りという現象の解明を阻んでしまう強固な社会的圧力にもなってもいる。通常、悟りを開いたという人物が現れれば、多くの者はその者にテストを望むからである。なぜなら悟りを開くということは従来、多くの社会では責務からの解放や免除、そして権力の保持を意味したからだ。それゆえに悟りを開いたと主張する者はその資格を有しているか否かのテストにさらされることになるのである。

 それらはたいていは苦痛、苦行を与えるストレステストの類である。社会現象としては激しい苦行や荒行をクリアした者を聖者として称号や聖性を付与することはしばしばみられる。また疑似的には身体的、知識的なテストが代用、補完材料にされることもある。優れた経歴や学歴、一流スポーツ選手に対する崇拝もその一例ではあろう。だが、そもそもテストをする側が悟りとは何かを理解していない以上はその者たちが行うテストもまた正当さを保証しない。ほとんど全てのそうしたテストは悟りの本質から離れた別種の社会現象であるのだが多くの人々はそのことには気づかないのである。それはスケーブゴートを供し、集団内の秩序や安定を保とうという社会的メカニズムの一種だからだ。そして悟りを得たと主張した者に対してはその集団内が許容できる質と数まで激しい苦行と選別によって淘汰していくことになる。社会の運営維持という観点では、悟りを得た人物が出現しないほうが望ましいことが多いのである。なぜならそれは通常の社会の生存競争からの離脱、離反を意味し、その社会が逆に変革されないかぎりはそうした存在を社会の中では例外以外は受け入れることができないからだ。端的に社会制度が維持できず崩壊するからである。また悟りが社会的評価でもあるためその定義の構造上、一定数以上は出現してはならない、またはほとんど出現してはならないとする社会的圧力が潜在的に存在しているのである。

 問題になるのは悟りを開いたという主張に対する潜在的なコンセンサスにある。誰かが自転車に乗れるようになったと主張したところで社会を揺るがすようなインパクトは与えないだろう。だが悟りを開いたと主張する者に対するインパクトはそれの比ではない。悟りを知らぬがゆえに膨張した誤解によって生じている過剰反応と推測できるのである。

 おそらくではあるが、悟りという現象は後述する副鼻腔理想解放状態(CoIFS)から生じた脳神経系の状態の一つにすぎない。個人的なこれまでの分析では副鼻腔理想解放状態は確かに高雅でクリアな思考や心境をもたらすが、現代的な社会適応能力で言えば全く常人の範囲内である。つまりそれだけで社会的指導者の立場につけたり、各種分野でトップ水準の能力を発揮できるようになるわけではない。一般人として社会の中に適応できるかどうかすら不確かで生物的、社会的な生存能力とはほぼ独立した現象だと思われる。(釈迦の出自が一国の王子であり、最初の弟子たちが釈迦の親である王から遣わされた部下であったことを忘れてはならないだろう。教団の成立前も成立後も何らかの物理的、政治的な影響や援助があったと考える方が自然であろう。)

 逆に言えば各分野や各種目で活躍するためにはその分野独自の能力開発が不可欠になるのである。また物理現象であるがゆえに、それは必ずしも即座に社会からの離脱や特権を意味しない。物理的存在、生物的存在、社会的存在としては依然として存在し続けるからだ。たとえばその個人が一定のルール(たとえば法治主義や民主主義)の社会内にいるのであれば、その是非に関する行動はその個人に最終的に委ねられるが、基本的にはそれらのルールは尊重し人生を全うすることになるであろうとは推測される。無論、それは社会に対して盲目的な服従を意味するものではないことも強調しておかねばなるまい。

 こうしたことから悟りの研究を進めていくためには、自然現象としての悟りと社会現象としての悟りを分離させる必要があるだろう。また悟りを得たこと自体が即座に社会の中で権力の保持や、免除の資格を得るものではないという社会的コンセンサスが必要になってくるだろう。