ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りは言葉では伝えられないとされた理由3 宗教装置の副作用 教団内からの社会的圧力

(悟りは言葉では伝えられないとされた理由3 宗教装置の副作用 教団内からの社会的圧力)

 第3の理由は組織内部から社会的圧力をもたらす宗教装置の副作用である。宗教装置とは一定の宗教の教団内外で権力関係を生み、人に影響力を及ぼす社会システムと考えてもらえればいい。そして悟りの場合、釈迦が悟りを得て教団を成立させていく過程で、悟りは概念化し、釈迦本人が得ている悟りの体感とは別に宗教装置としても成立していった。「宗教措置としての悟り」である。

 それはありていに言えば、悟りという究極の理想状態を設定し、その状態へ至るための救いを得るためには、教祖や教団の定める一定の教義と戒律に従い、それを教団の参加者に遵守させるという社会システムである。そうしたシステムへの参加者は悟りという現象を言語で解明することを阻害されやすい。なぜなら言語で教義の根幹(この場合は悟り)を解明してしまえば、もはや信仰と服従は不要となるからだ。信仰がなければ教祖を中心とした権力関係は失われ、宗教装置としての機能を低下、破壊してしまうことになる。特にこのことは悟りを得ていない教団上層部の権力者たちにとって重大な問題になる。彼らは己の地位を守るために意識的、無意識的に悟りを言葉で解明させないようにし始めるのは自然の成り行きであろう。

 宗教の教義の根幹は反証不能で、実現が難しいものほど望ましい。なぜなら反証できてしまえば信仰の力が必然的に弱まるからだ。たとえばある一定の神を信じる宗教であれば、その神が存在しないことを証明してしまえば教祖や教団の力は大幅に低下するのは当然の帰結であろう。神の声を聞き、その言葉を代弁する、教祖と教団が虚偽を述べていることが証明されてしまえば、その教えは誰も信じず、教団の権威と権力は無効となるからだ。

 皮肉なことだが、教団内外にそうした教義の根幹を理解、体現する者が現れることは実は教団にとっては望ましくないのである。もしそうした者が現れようとすると、教団の社会システムと権力関係の維持のためにそうした者を排除抹殺しようとするのである。仏教教団で言えば、教団を運営維持するためには悟った者を出してはいけないのである。なぜなら悟ることのできない者たちの信仰と服従こそが教団の権力の源泉にほかならないからだ。もともと物理的な意味でも悟りを得ることが極めて難しいことに加え、そうした社会的メカニズムが働いている下では、悟りを論理的に解明していくことは難しく、たとえ悟った者であっても教団内や仏教という枠組みの中にいる限りはそれ以上の探求解明ができなかったのだろう。教団を、教祖を否定しかねないからだ。その結果として、悟りという概念だけは残し伝えることはできても、悟りとは何かと問われたときに言葉で説明することを断念せざるをえなかったのだろう。宗教集団の視点で考えた場合、悟りや神の再来のような教義の根幹に関わる事柄は実は出現しない方が好ましいのである。それまでの解釈の誤りや欺瞞、堕落が明らかにされてしまうからだ。基本的に宗教装置の参加者は部分的であれ棄教する以外にはそのシステムの根幹を否定できないのである。

 また言論の自由や思想信条の自由が保障されてこなかった社会では自由な認識活動が阻害されたことは想像に難くない。おそらくは極めて少数ながらも出家、在家、または信仰の有無を問わず覚者は存在したはずだがそれらは社会的圧力の影響で無名の存在として歴史の中に消えていった可能性は高いと思われる。

 宗教の力によって悟りの概念や教義は今日までかなりの変質を伴いながらではあるが伝承されてきた。おそらくは、と前置きがつくが、悟りという現象そのものは宗教とは独立した概念、現象であろう。たとえ悟りという現象がその後に宗教を生み、形成したとしてもである。釈迦が悟りを開き、その方法を残そうとしたが、長い時を経ることでそれが変質していったのが何よりの証左であろう。悟りそのもの(物理現象としての悟り)よりも、悟りという概念(宗教装置としての悟り)に信仰を持たせたことで宗教団体が成立し、それら宗教団体が本来の悟り(物理現象としての悟り)を置き去りにしたまま展開、派生していったと推測される。言い換えれば宗教の力そのものが悟りという真実から人々を遠ざけてきた一面があると考えられるのである。