ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

肉体的能力、知的能力との関係

(肉体的能力、知的能力との関係)

 もちろんそうした厳しい修行をやり遂げたこと自体は間違いなく強靱な肉体と精神のなせる技ではある。が、強靱な肉体と精神を持つだけであれば軍隊の精鋭や特殊部隊にはおそらく同レベル以上の者はいるだろうし、スポーツ界のアスリートを見てもそうした者は多いだろう。だが彼らが悟りを開いたかと言えばやはり疑問を持ってしまうだろう。もちろんごくごく一部のアスリートにはその運動能力のピーク期や1試合限定のように一過性のものであればまさしく神懸かる時はあるのだが、彼らはスポーツや競技という文化種目の中に活動を留めてしまうために、それが悟りとして還元されることはなかった。なぜならそうした彼らでさえも勝負や弱肉強食と言ったこの世界の根本原理から離れることができず、その枠内での活動に留まってしまったからだ。

 そうした事例の代表例としてあげられるのはかつてのアメリNBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンであろうが、その彼ですら引退してしまえば、偉大なスポーツ選手という枠からは飛び出そうにはない。おそらく彼が亡くなってしまえば、彼の偉大さは急速に忘れられていくのは間違いないし、引退した今であってもその傾向は確実にあるのである。

 また頭脳や知的能力と言う面においてもやはり神がった活躍をした人物はいくらでもあげることができる。ニュートンアインシュタインフォン・ノイマンエジソンガウスオイラー、ボーアなど理系の科学者、技術者たちは天才であることは間違いないが彼らが悟りを開いていたかと言うとこれははなはだ怪しくなる。彼らは真理を発見し、未開を切り開いた偉大な者たちではあるが、残されたエピソードにはエキセントリックなものや悲劇的なものも多い。人格的、倫理的に首をかしげるざるをえないケースも少なくないからだ。となれば、悟りという現象は優れた身体能力や知的能力が必須条件ではないのかもしれないと推測はできる。

 もちろん宗教関係者にも知的な能力や超常的な能力を発揮した者は少なくない。空海の超人的な学習能力などはその最たるものであろうし、それが単なる偶然やトリックであったのかどうかはこの時点では判断しかねるが、奇跡や予言を行った宗教者がそれであろう。

 ただ彼らは超人的な能力を保持し、カリスマ的宗教指導者として教団内の権力を持つことに成功したことは事実であろう。また知識の輸入やローカライズを行うことで新たな宗派を打ち立てることができた者は偉大な宗教者であっても、肝心の悟りに肉薄しえたかどうかついては疑問が残るのである。結局、彼らも彼らの後継者たちも政治勢力として成立、維持、分派することはできても結局は悟りに関する従来の言説を繰り返す袋小路に陥ったからだ。また同時に彼らの業績そのものも勝負や生存競争の世界の価値観から逃れられるものではなかったことがそれを示している。

 なお、そうした分派の創始者たちは釈迦やキリストといった開祖レベルの者と比較するとその差があることは認めざるをえない。最大の違いは特に非常に優れた言語モデル(多少誤解を含む表現であるが、それはより多くの者に受け入れられる普遍的な教義とも言える。)を残したことが決定的な差になったとは思われる。たとえばイエス・キリストなどは事実かどうかはともかく伝承のとおりであれば、多くの奇跡を起こしたと同時に非常に優れた言語モデルを提示した。そのために約2年という短い活動期間にも関わらず大きなムーブメントを起こし、表面的には弾圧と刑死という悲惨な結末であったにも関わらず、それが後に世界三大宗教の一つとなったことからもそれは分かる。おそらく奇跡だけでは後世には残らず、大きな支持も得られなかったであろう。

 おそらくは彼らの持つ優れた個人的能力ゆえに悟りの本質が隠された面があるのだろう。つまり悟りと個人的能力は基本的には独立した別々の能力であると考えられる。また彼らが残した宗教装置という在り方そのものが悟りの解明には適していなかったのだと考えられる。結局、彼らが何を言ったか、何をなしたかは悟りの本質ではなく、あくまで本質から派生した結果であったと推察されるのだから。