ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

第3章 副鼻腔理想解放状態の体感と仮説から見えてくるもの

3章 副鼻腔理想解放状態の体感と仮説から見えてくるもの

 

 物理面での悟りに関する仮説は既に述べた通り副鼻腔理想解放状態(CoIFS)と鼻性脳神経症候群によるものである。この仮説を確定させるには客観的観測主義の立場から検証を待つしかないのだが、私個人の内観からの論考を行うことにも意味はあると考えた。それらは定量的な材料にはならなくても定性的な材料にはなりえるからだ。そこでこの章では副鼻腔理想解放状態から見えてきた悟りに関する論考を行いたいと思う。

 

(言語としての悟り、行動としての悟り、身体としての悟り)

 仏教に限らず悟りについての伝統的な研究は、悟りを開いた者と呼ばれる者に対する言動、つまり何を語り、何を行ったかということだった。それは言わば文献主義と行動心理学的なアプローチである。もちろんそれは前述のようにいたずらに言い換えを増やすばかりで堂々巡りに陥ったわけだが、最大公約数的に表現すれば、仏教的な悟りはこの世界の理(生老病死や弱肉強食やそれに端を発する宇宙、世界の悲惨さ)からの超越であった。またそれは全宇宙との一体感であり、解脱、涅槃、色即是空、空即是色などの概念であろう。だが我々はそうした概念を知識としては理解できても、それで悟りを得たというわけではない。が、文献主義の立場からは、悟りを開いたとされる者からはそういった類の言葉を共通項として抽出されるばかりであり袋小路に迷い込んでしまう、また実際に比較すれば彼らの言動はその共通項でくくれるほど単純ではなく実に多様である。時には内外を問わず対立と闘争を繰り返すことすらあるのが実状である。

 たとえば上座部仏教大乗仏教の分裂などはおそらくは教団化による布施と功徳のシステムの欠陥が教団上層部の搾取、腐敗、原理主義化を、また下層部の世俗化と堕落を招きその対立を深めたからであろう。己の悟りばかりを追求することを大乗仏教側が小乗的と批判したのは当時の上層部が修行と称して教団のフリーライダーと化して、組織の末端を搾取し続けたことへの反発以外の何者でないだろうが、そのことがまた悟りの本質から遠ざかるものでもあったことも事実だろう。個人の悟りを経ないままに、ことさらに他者への救済を強調したり念仏などによる他力本願の志向はその最たるものであろう。たとえそれらが困難な生活に苦しむ民衆を救おうとする意図があったとしても、である。

 ここから導き出される結論としては、悟りというものは一定の心身の状態であって、その周囲の環境や個人の持つ背景によっては現れるものが異なるということくらいだろう。であれば、悟りの本質は初期仏教の教えに焦点が立ち戻ることにならざるを得ない。