ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

第2章 悟りを解明するために (悟りに入っていない者に対して悟りを理解させるにはどうすればよいのか?)

2章 悟りを解明するために

(悟りに入っていない者に対して悟りを理解させるにはどうすればよいのか?)

 このようにいくつかの理由から悟りという現象は解明されてこなかった。悟りの境地から宗教化して概念は残ることはあっても宗教性や言語機能不全ゆえにその本質からは遠ざかっていくことは既に述べた。釈迦本人が目指したのは悟りの境地に至る者が続出することで、やがて集団内で悟りの概念が共有化されることだったのだろう。ただ現実としては宗教概念化した別の意味での悟りの概念が共有化されてしまったと考えられる。そして結局、悟らなければ悟りを理解できないとされてきた。悟りに至る者が非常に限られていたことを考えれば、確かにそれは一つの着地点ではあっただろう。

 そしてこれまでの歴史通り、何かの偶然で悟りの領域に達した者が出現したとしても既存の宗教的言説をなぞるか、言い換えただけでよくて新宗派か新宗教を作るだけであろう。また同時にそれらよりも多くの単なる悟りを詐称する人物たちが同様なことを繰り返してきたこともあり状況はますます混乱するばかりとなったわけである。

 こうした壁を超えるには個人の中に発生している意識や感覚を別の客観的な知識体系で還元して述べていく必要があると思われる。ありていに言えば、特定の物理的状態があることで、特定の意識や感覚が成立するということを証明していけばいい。そしてそれは意識の発生や心のありようを脳神経科学など物理的、自然科学的アプローチで解明していくということだろう。そしてその中の一つの対象が悟りの境地となる。もちろんこうしたことは現時点での科学技術の水準では困難で未開拓な領域ではあるが基本的な解明への方向であるのは確かであろう。

 必要なのは宗教原理を排した悟りの解明であって、それ以外のものはたとえ悟りの領域に達した者の言説であっても悟りの解明にとってはかえって障害になりえることに注意が必要だろう。たとえそれが釈迦本人の言葉であったとしてもである。たとえそれが己の利益に反したとしてもである。悟りを解明するには教義と暗示という宗教原理を排した形で語る必要があるのである。

 この章ではそのための初めの一歩を始めたいと思う。