ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りは言葉では伝えられないとされた理由5 自然言語の持つ性質、公案(禅問答)の構造

(悟りは言葉では伝えられないとされた理由5 自然言語の持つ性質)

 第5の理由が自然言語の性質によるものである。別の言い方をすれば、言語には構造的な欠陥や限界が含まれており、その領域での事象は言語機能不全を引き起こすためとも言えるだろう。そして悟りという現象はそうした事象の一種であったがゆえに言語での十分な説明をすることができなかったと思われる。この第5の理由がおそらく最大の理由である。

 言語機能不全を起こす例の一つは矛盾的な概念である。たとえば故事成語の「矛盾」などはこの典型例だろう。何でも突き通す最強の矛とどんな攻撃も跳ね返す最強の盾、この二つがぶつかればどうなるかと言えばまさしく論理的矛盾のために答えに窮するのである。そしてさらに一歩先の分析に進めば「最強」や「無上」などの形容が加わることで「矛」や「盾」の言葉の潜在的な下部構造にある「闘争」や「競争」という概念が成立しなくなるという言語構造上の機能不全が発生するために答えに窮するのである。

 また同様に言語の潜在構造を喪失させ言語機能不全を引き起こすものはある。たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか?」というタイプの問いである。詳細は別の機会に譲るが、この問いのケースではアプリオリな(つまりその根拠なしに成立するという)定義づけをされた「人を殺してはいけない」という語に対して、「なぜ」という根拠を問う語があてられるからである。根拠なく成立するものに根拠を問うことはできないのであるから、多くの場合、その回答に窮することになる。同様にアプリオリなものはいくつか存在し「心」「意識」「魂」などもその代表であり、「なぜ心(意識、魂)は存在するのか?」と言う問いもまた言語機能不全を引き起こす一例だろう。

 こうした言語構造上の欠陥は他にもいくつか存在すると考えられる。そして悟りという現象がその欠陥の一つをつく現象なのであろう。ゆえに悟った者であっても伝えるための手段が日常会話で用いられるレベルの自然言語では伝えきることができなかったのである。言語、特に自然言語は必ずしも完全な表現能力を持つわけではないのであろう。それは長きにわたりアリストテレスの三段論法の不備が指摘されず、近代以降の量化理論などで拡張されたことからも言えるだろう。

 なお、こうしたことを説明モデルとして用い、類似した悟りという現象を伝えようとしたものが仏教内にもある。それが公案、いわゆる禅問答であろう。

 

公案(禅問答)の構造)

 「両手で打つと音が響きます。しかし、片手ではどんな音がするでしょうか?」 

 これは江戸時代の臨済宗の僧である白隠が考えた代表的な公案(禅問答)の一つで隻手の音声(隻手音声)と呼ばれるものだ。この問いに対して答えを得ることが禅宗の一派(臨済宗)で修行の一つとして取り入れられている。こうした問いに対して通常は答えに窮するわけだが、無理矢理に答えを求めれば「片手では音はしない」とかもう少し現代的に「片手では空気の摩擦によって風切り音がする」とかそうした類のものだろう。この問いの答えはひとまず置くとして、こうした公案(禅問答)は多く残されている。だがその意味は何だろうか? 

 答えは論理構造の解体を引き起こす問いを与えることで、その意識を伝えることにある。隻手の音声で言えば、この片手で出す音がいわゆる悟りを意味するのである。そして対極にある両手で出す音が言語を意味しているのである。そこまで分かれば解は簡単である。当然ながら片手では音は出ない。そして音(=両手の音)が言語である。隻手の音が悟りとすれば、悟りは言語ではとらえられない、という従来から仏教で言われていたことを言い換えただけということが判明するのである。表面的に言えば、これが隻手の音声の答である。表現と潜在構造の対応関係は以下のように示される。

表 隻手の音声の意味と構造

表現

意味

潜在構造

通常の音(つまり両手の音)

言語

音を鳴らすには両手が必要(前提Xとする)

隻手の音

悟り

前提Xが成立しないために言語機能不全となる

 

 もちろんこれを知識として知ってしまうことにさほど意味はない。であるから、それ以外にも無数の公案(禅問答)が作られることになるのだが結局それらが伝えようとしていることは同じである。それは悟りは言語では捉えられず体得(体の意識や感覚として得てそれを維持し続ける)するものであるということである。

 ただそれは公案(禅問答)の構造分析であって真の意図ではない。

 こうした公案(禅問答)が意図しているのはある目的のためだろう。それは相矛盾した概念が共存した状態の意識を伝えることである。言い換えれば、問われた者がこの答えに窮した瞬間に抱いた意識や感覚こそが禅問答の伝えたいものなのである。なぜなら、それは悟りではないものの、悟りと共通する文字通り言語で説明できないものをモデル化したものであるからである。

 翻って考えてみれば、悟りを表す言葉は矛盾的な表現であることが多い。仏教で言えば、解脱、涅槃、色即是空、空即是色などであるし、他の宗教では梵我一如、「生をも望ます、死をも欲せず」、全宇宙との一体感、……などであろう。これらの説明は分かったようで分からないものだ。そこで様々な解釈を言語で試みるわけだが、単に言い換えられたものがいたずらに増殖するばかりで徒労に終わるのである。なぜなら前述した言語機能不全の壁が立ちはだかるからだ。そして結局は悟りを理解するには自らの体で体得する以外にないとされ、悟りを開いた者たちであっても、その現象そのものを語り残すことはできても、それ以上の言語的な追及は断念されてきたわけである。またその一方で護教のための理論体系つまり一種の神学が派生、肥大していったと考えられるのである。