ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

無(ゼロ)が世界の根源とする認識

(無(ゼロ)が世界の根源とする認識)

 このように我々にとって「無(ゼロ)」と認識されるものがこの世界の根源であるとしたのが悟りの境地や仏教の説く本質であると考えられる。ただ仏教の場合、宗派や解釈の違いも大きいが、基本的には我(実体)の存在を否定する一元論を教義の根本としたが、この我(実体)の存在の否定は言いすぎであり誤りを含んでいると思われる。釈迦の肉体そのものが存在した以上、実体は存在するのがその反証であろう。おそらくは認知のウロボロス的限界を超え、通常の自我の意識が消えたと感じるほど希薄となった時間を相当長く維持できたために、我(実体)を全て否定する主張に至ったと思われる。だが釈迦が悟った後にも生物的、社会的に存在し、活動をしていた以上、その主張とは別に釈迦本人の自我も共存していたのは自明であろう。釈迦にしてもなお悟りの構造を完全に言語として表現することができなかったわけだが、2500年前の学問水準を考えればこれは仕方のなかったことだとは思われる。また釈迦本人は文書ではなく口伝であったためそれらをまとめた弟子たちの解釈に誤りもあったのだろう。

 より厳密にはここで用いられる世界の根源である「無(ゼロ)」とは「無(ゼロ)を司る何か」であろう。それを実体(存在)と対置する形で世界観や宇宙論が形作られたと考えられる。そして無(ゼロ)と実体の中間領域に何かを設定するか否か、両者を連結するか否かで一元論、二元論、三元論に表面上は分かれる違いはあるが、その関係は世界各地の宗教、哲学、思想の根幹と共通していると考えられる。逆に言えば、真理とされた万物の根源である「無を司る何か」への道は一つではないということだろう。