ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りはなぜ突然やってくるのか?

(悟りはなぜ突然やってくるのか?)

 悟りが語られる中で共通している現象に悟りが突然やってくるという逸話が多い。釈迦はもちろんにして仏教内でもそういう類の話は多く、またそれが仏教で言うところの悟りに該当するかどうかは不明ではあるが、イエス・キリストムハンマドも突如、神からの啓示や悟りを得たという伝承が残っているのは周知のとおりだ。また無名の者であっても神秘体験をした者も蓋然性がなく突如そうした体験をしたという逸話は多い。いずれにしても悟りに類した概念は何らかの修行、努力、時間などの積み重ねではなく偶然に近い形で現れている。別の言い方をすれば線形的ではなく非線形的に出現している。これはなぜなのだろうか?

 体験的な話で言えば、それは確率的な現象、しかもそれが起きる確率が極めて低い現象だからであろう。それゆえに努力量とは相関しない現象なのだと。なぜ確率的に低い現象となるかと言えば、その個人が原因を認識できないからである。認識できないから対策も的外れとならざるを得なくなる。恒常的に障害があり、しかもそのことを自覚できない部分が改善されるか否かは確率的には低いと考えざるを得ない。その個人がそのことを認識できない以上、認識も対策も適切とは言えないものになるからだ。結局、事の良否は運しだいの低い確率に従うと思われる。加えて、もともと副鼻腔理想解放状態になることがヒトという生物にとっては例外的な事例であると考えられることも確率の低さに拍車をかけるのだろう。

 これも体験の話になるが、何らかの要因で閉塞していると思われる副鼻腔が理想的に開放されたと自覚できたのはほとんど偶然によるものでしかなかった。もちろん多少ではあるが物理的刺激が功を奏したこともあった。だが、通常、頭蓋骨で守られた副鼻腔内は外部の圧力からは守られており、そう簡単には意図した通りに動かすことはできない。また、あまりにも強すぎる圧力は脳や神経そのものを破壊してしまうし、変化をもたらす時はそもそもがそうした強い力は全く不要でもあった。こうした経験からは、極めて微細な副鼻腔間の圧力差を改善することが答えであろうと推測できるのではあるが、実際にそれが好ましい状態に通り、しかも維持し続けることができるかどうかは偶然の要素が極めて強かった。つまり、原因が特定されず、それが言語化されず、方法論も確立していなかったため「言うは易し行うは難し」という状況なのだと思われる。