ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

精神病との違いは何か

(精神病との違いは何か)

 ただこうした矛盾的な言説は精神疾患とされる者とも共通しないわけではない。ではその差は何であろうか? 後の世の評価にすぎないのだろうか? それとも何らかの差異があるのだろうか?

 まず精神疾患のグループは、実体世界との再統合が不十分または欠落してしまうと言える。彼岸と此岸という言葉を使うのであれば、彼岸、つまりあちらの世界に行ったまま帰ってこれないとも言える。支離滅裂、言葉のサラダと呼ばれるような表現が出ると思われる。

 一方、病的なグループと比較した場合、宗教的な表現が論理構造の解体だけにとどまらず再統合が起きている点が特徴である。つまり矛盾的な言説でありながらも実体の世界や社会の中で新たに価値のある概念として成立、影響を与えていることだ。キリストの言う「汝の敵を愛せよ」などがその一例である。こうした言語モデルキリスト教に限らず宗教の根幹をなしている。また個人として見た場合、社会的にもある程度の適応能力や既存の社会の論理を理解し、それを踏まえることはできているのである。社会や制度に対してただの服従でも脱落でも離脱でもないところが精神疾患のグループとの最大の違いであろう。別の言い方をすればコミュニケーションが成立するか否かとも言える。

 こうした実体世界への再統合を成しえたからこそ悟りや啓示を得た者たちは世の理に従いつつもそれを超越、革新する言動を生み始めるのだろう。それは正の方向への逸脱とも言える。キリストの残した「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉はそうした認識から生まれる典型ではあろう。通常、人の生存はパン(食料やそれを得るための競争、勝利、それらの質と量による価値観)によって維持されるのだが、それにも関わらずそれだけを目的化するわけではない、という主張は最も単純、簡易でありながらも人の本質や生き方を示す優れた言語モデルの一つであろう。もちろんそうした主張をする個人を社会がどの程度受け入れるのか、無視するか、徹底的に弾圧、排除するかなどは各時代やその社会にも依るのは言うまでもないだろう。

 またキリストの例で言えば、神の使いであると自らを疑わなかったキリストが処刑時に「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と言ったのはまさしく人間としてのキリスト本人の偽らざる本心であったと思われる。まさか神の使いである自分が死刑にされるなど疑いもしなかったはずなのだから。その死を贖罪と解釈して宗教装置にしたのはキリストの死後に残ったキリスト教団によるものであろう。それは釈迦と仏教の関係と同じくキリストが得た啓示と後に残ったキリスト教に差異があるということだろう。

 悟りや啓示を受けることは必ずしもその個人の世俗的成功は保証しないのである。なぜならそれはまさしく個や我の限界を超え始めたケースであるからだ。個や我を超え始めたケースは必ずしも個や我の最適化につながるわけではないのである。と同時に個や我の最適化を追求しそこに安住する限りは悟りや啓示、救いに類する境地には至っていないとも言え、本来は順序は逆で因果関係はないと思われるのだが、「個や我を超えた善行をなすことで悟りや救いが得られる」という論理に転じて宗教的教義や社会維持に有用性を見出されたとも言える。

 そして世界各地でそれぞれの時代や環境を背景にしながら極めて散発的ながらそうした個人が発生していたと考えられる。洋の東西を問わず、悟りや啓示を受けた者が残した主張にある程度の共通性が見受けられるのは、その基礎条件として生物学的に共通した物理現象である副鼻腔理想解放状態があったゆえではないかと推察される。(もちろん、私がキリストや釈迦の再来と言うつもりは全くないし、何より悟りや啓示とは別に彼らが固有に持っていたであろう属人的なカリスマ能力は皆無である。あくまでこれは哲学的、社会学的な論考の結果である。念のため)