アルケー「ゼロ」論と万有意識論
(アルケー「ゼロ」論と万有意識論)
こうした考え方を西洋哲学的な文脈で言えば、万物の根源であるアルケーを「無(ゼロ)」とするアルケー「ゼロ」論と言える。つまりアルケー「ゼロ」は「無を司る何か」である。そしてこの「無を司る何か」も、物質の定義を拡大した解釈をすれば、物質の一種と考えられる。それは超物質やゼロ物質、ゼロを司る物質とも呼べるのだがこうした呼称は言語機能不全を引き起こしやすく注意が必要だろう。認知のウロボロス的限界により我々実体世界の住人にはそれは基本的には「無(ゼロ)と認識される」、もしくは「原理上、認識(検出)できない」からだ。そのため現時点では「無(ゼロ)を司る何か」と言う用語をあてたほうが適切であろう。
そして万物の根源である「無(ゼロ)を司る何か」は実体と接続しているのだが、その両者を中間領域で接続するものが心、魂、意識、時間などであろう。これらは物質と「無を司る何か」の中間的な性質を持ち、「亜物質」や「半物質」と呼ばれるような性質を持つと考えられる。そしてそこから全ての実体(存在)は意識を持つという万有意識論の仮説が導かれることになる。
通常、心や意識のたぐいは生物にのみ存在するとされてきた。だが実はそれが真実であるかは確かではない。心の哲学で扱われるように、私たちは自分以外の人間が自分と同じ心や意識を持っているかどうかも確かめようがないのである。「人だけが心や意識を持つ」、「生物だけが心や意識を持つ」という考えは、ただ伝統や常識に従っているにすぎないのである。そしてこうした常識を絶対視することから一歩離れて考えることができれば従来の常識では読み解くことができなかった問いも理解が可能となる。それがアルケー「ゼロ」論と万有意識論である。
以前にたとえとして出したが、「原子をはじめとした物質の集合体である人がなぜ心を持つのか?」と言えば、「物質には心がない」という考えが誤りで「物質にも心があり、その集合体も各部分とは別の心を持つから」であろう。まず物質(存在、実体)とその根源である「無を司る何か」との中間に心や意識が層として存在し連結していると考えられる。そして「何らかの機能を持つ主体」が生まれると別の意識が生成され多層構造を持つのであろうと推察される。そして小は素粒子や原子などに始まり、物質、生物、機械、文化作品(言語、法律、文学、音楽、絵画、彫刻など)などに広がり、大は星、宇宙へと意識の空間はあらゆる万物へと多層的に展開していくことになる。ただそれぞれの主体が互いの意識を認識できないのは認知のウロボロス的限界ゆえであると説明できる。そして例外的に副鼻腔理想解放状態を経て認知のウロボロス的限界を超え始めると、自分以外の意識を知覚するようになり、その結果、古代から各地に残る宗教的概念や哲学的概念として捉えられ、それぞれの能力や背景を受けながら言語化、概念化されたと考えられるのである。
もちろんここでいう物質が持つ心や意識は私たちが通常感じ取っている心や意識のありようとはかなり異なるものであることは推測される。概念の再定義は必要であろう。だがこれまでの概念を拡張して物質が心や意識を持ちうるとすれば悟りや啓示から端を発する現象は信仰(暗示)によらずとも理解することができるのである。
表にしてまとめると以下の通りである。
表 宗教、哲学などに共通する世界観
タイプ |
神羅万象、宇宙 |
備考 |
||||
基本モデル |
無(ゼロ)を司る何か |
亜物質(心、意識、精神、時間) |
物質、実体、存在 |
この説明モデルは、万物の根源を無(ゼロ)とするアルケー「ゼロ」論と全ての物質が意識を持ち、万物の根源と接続している万有意識論で構成されている。 |
||
基本モデル |
主体の根源(無を司る何か) |
(認知のウロボロス的限界により |
主体 |
|||
一元論 |
無我、空 ⇔ (悟りの境地により一体化している) ⇔ 人やモノ |
中間領域を設定せず、連結し一元化している |
||||
二元論 |
神、神々、悪魔、霊など |
人やモノ |
中間領域の設定をせず二分化する |
|||
三元論 |
精霊 |
神 |
キリスト(実体)、人やモノ |
中間領域を設定し、両極を接続している
|
表 宗教、哲学などに共通する世界観