ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

キリスト教の三位一体説

キリスト教の三位一体説)

 キリスト教の教義の根幹の一つに三位一体説がある。これは簡略に言えば、精霊と父(神、ヤハウェやエホバと呼ばれる)と子(イエス・キリスト)の三者はそれぞれ別な位格をもつが実体としては一体である、というものだ。説明を読めばわかる通り矛盾的な表現であるためその理解には困難を伴う。そのためキリスト教会でも理解の対象というよりは信仰の対象とする神秘として半ば解説は放棄されているのが実情である。こうした難解な表現も前述した悟りの論考と同心円状の現象と考えられ、アルケー「ゼロ」論と万有意識論を用いれば、簡単に説明できる。

 すなわち、精霊、父(神)、子(イエス・キリスト)を超物質(「無を司る何か」)、亜物質(意識、精神、時間など)、物質(実体の存在)の関係に当てはめればよいだけである。既に説明したようにアルケー「ゼロ」論と万有意識論は、世界の根源である「無を司る何か」と物理世界にある実体の存在を両極として、その中間領域にあると思われる亜物質(意識や時間など)と結びつく形で世界や宇宙など神羅万象を形成していると考える理論モデルである。この説は別に私の完全オリジナルというわけではない。表現のされ方こそ様々で混乱がみられるものの、これは洋の東西を問わず古代の時代から概念化されてきたものであろう。

 このモデルで三位一体説を考えれば、精霊は万物の根源である「無を司る何か」であり、父(神)は中間領域にある亜物質(意識や時間など)であり、子(イエス・キリスト)は実体の物理世界の存在、すなわち生物学的、社会的存在としての人として位置づけられる。そして、それらは意識を介して連結し一体化しているが、各層においては別の姿を持つ、と説明されるのはしごく当然であろう。従来、三位一体説の理解に困難があったのは先入観として神と人、神と実体世界(物理世界)という神を最上位の存在と考える二元論的な概念が支配的であったためと思われる。