ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

修行やトレーニング、戒律の遵守によって悟り(副鼻腔理想解放状態)を得られるようになるのか?

(修行やトレーニング、戒律の遵守によって悟り(副鼻腔理想解放状態)を得られるようになるのか?)

 これはおそらくノーであろう。少なくとも伝統的な方法論ではそう言える。

 大乗仏教の教義の根幹の一つに六波羅蜜があり、これは端的に修行や戒律の順守を説くものであるし、初期仏教も八正道に見られるように同様の傾向を持つ。端的に言えば、悟りを得るためには修行やお布施が必要だと説いているのである。だが副鼻腔理想解放状態が悟りだとする仮説から論考を行えば、修行やお布施の必要性に対しては疑問が生まれてくる。物理現象としての悟りと、その後に派生した修行や戒律などの宗教装置がどの程度の再現性を持っていたかという点は厳しく検討する必要はあるだろう。たとえ釈迦本人がそう言い残したとしてもその方法論が本当に正しいものであるのかどうかは検討すべきであるからだ。宗教的態度としては問題はあるかもしれないが、それが科学的態度であろう。

 当然ながら身体的トレーニングや精神的トレーニングにはそれらに応じた効果、効用はある。だが既存の修行の方法論で副鼻腔理想解放状態を得られるかどうかは偶然によるだろう。たとえば腕立て伏せやランニング、寄付をすることで虫歯を直そうとするものであるからだ。よく考えてほしい。読経、座禅や瞑想、呼吸法、断食、質素な食事や滝行、山行、etcなど厳しい修行や戒律の順守や多額のお布施で副鼻腔に物理的変化をもたらす確率や整合性を。これらの修行方法で頭蓋骨に守られた副鼻腔の物理構造を変化させるかどうかは単なる偶然以外の何物でもないのは、副鼻腔理想解放状態の仮説が正しいとすれば自明の理ではある。いわんや人間の生物学的、生理学的限界を超えたような厳しい修行は対外的なパフォーマンスや社会装置にはなり得えても、悟りを得るためには効果がないどころかそこに至る道を遠ざけるだけとなる。無理な修行のために体を壊すか、最悪、命を落としてしまうだけだからだ。

 

追記:

 基本的に従来からの伝統的な修行法やトレーニング法の類では悟りや啓示を得ることは至難である。それは悟りを得たとする者の出現確率、仏教をはじめとする各種宗教の歴史を見れば一目瞭然であるからだ。

 ただし悟りの境地をもたらす原因が「副鼻腔理想開放状態(CoIFS)」であると特定されつつあることを考えれば、これから先の時代では新たなトレーニング法なり調整法、外科出術的なアプローチなどが生まれてくると考えられる。その結果、全ての人ではないにしても、これまでよりもより多くの人々が悟りの境地を得られる時代が来るであろうとは予想される。)