ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りの側面1

(悟りの側面1

 ここでは多少重複するが補足として物理現象としての悟りの側面について述べよう。悟りが副鼻腔理想解放状態の維持であることは述べたが、そこから導き出されるのは従来の悟りについてのイメージが多分にして誤りを含むと思われるからだ。

 確かに副鼻腔理想解放状態は高雅で清浄な心境をもたらすが一個の人間個人であることは変わらない。同時に生物学的な人間としての器官、すなわち脳や骨格、内蔵、筋肉、皮膚などは通常の人間と同一の性質を持つ。したがって悟った当人も生物学的な生理欲求、つまり食欲、性欲、睡眠欲、また社会的存在としての名誉欲や承認欲求、自己実現欲求などの各種の欲求が完全に消失するわけではないと考えられる(消えるわけではないというのは重要な視点だと思われる)。そのため仮に完全な悟りの境地に達したとしても生物的、社会的な意味での人の生存を主な目的として追求する生き方から相対的な距離を置けるだけであろう。またそれは仏教における中道という概念にも該当する。

 通常、流布している悟りのイメージと言えばそうした欲求や煩悩と完全に切り離された存在と考える傾向が強い。端的に言えば、断食を行っても死なず、睡眠を取らずとも平気で、性的な欲求や誘惑、金銭や地位への欲求、各種の苦痛や不安に対しても一切動じない、などである。しかし、それは後の世で作られた悟りのイメージ、すなわち宗教装置としての悟りであり、超人幻想であろう。悟った人間であっても生物学的な意味で人間である以上、そうした人間らしさは併存して保持し続けていると考えられるのである。当然ながら喜怒哀楽や時間経過による肉体的変化、そして死とも無縁ではない。仮に死を克服できるのであれば悟りとは別のメカニズムやテクノロジーが必要であろう。

 また悟りが物理現象で身体性の意識や感覚である以上、逆説的には死人には悟りの境地は得られない。人、生物、物質は死ぬ(主体を失う)と無(世界の根源)に還ると考えられる。仏教では死を一つの完成とみなす宗派も少なくないのだが、それは悟りの本質から離れた宗教的解釈にすぎないと考えられる。

 そして悟りは意識や感覚であるので実際の個人の持つ技術や知識には影響は与えつつも基本的には独立しているものだ。そのためたとえ悟りを得たとしても現代社会のように高度に知識化、分業化が進んだ社会においては必ずしも社会的適応能力が向上するわけではない。もっと端的に言えばその個人の地位、名誉、収入、異性や友人との交友関係の良否などは保証しないのである。

 加えて悟りという現象は人間の持つ可能性としては必ずしも唯一絶対の完成ではないことも示唆されるのである。これは既存の仏教関係者には受け入れがたいことなのかもしれない。もちろんそれは無上に高雅で清浄な境地をもたらすものではあることも確かだが、悟りを解明する過程では必然の帰結かもしれない。人間の持つポテンシャルを全て開発するという意味では悟りであっても通過点にすぎないと言えるのである。悟りの先があるということはまだ人間の持つ膨大な領域のフロンティアが残されているという意味であるわけだから、無論それは喜ばしいことであるとは思われる。