ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

修行というより調整や治療に近い

(修行というより調整や治療に近い)

 通常、ほとんどの人間が程度の差はあれ鼻性脳神経症候群の状態にあり、そこから極めてまれに副鼻腔理想解放状態となる者が知覚する意識や感覚が悟りであると推察される。この私の仮説が正しいならば、と前置きがつくが、悟りに対するアプローチは修行やトレーニングという性質よりは治療や調整という概念が適切だと思われる。一般的な意味としても病気に対してトレーニングや修行という概念は適切ではないからだ。それは修行も治療もどちらもプラス方向への働きかけであるが修行はゼロからプラス方向へ、治療はマイナス方向からゼロへであり、同時に修行は能動的な意思に重きを置き、治療は働きかけがあるにしても最終的には心身の恒常性機能に委ねるからだ。悟りへのアプローチもまた修行的な能動的な意思に重きを置くよりも、最終的には心身の恒常性機能に委ねるという点で共通するからだ。つまり悟りに対しては修行というアプローチはあまり意味をなさないと考えられるのである。

 修行に意味がほとんどないとなれば、どうすればよいのか?

 修行に効果がないなら自由に遊んでいればよいのではないか。という意見もあるだろう。そのあたりは難しい。生物学的に人間であれば、何か先天的に大きな問題がなければ悟りをもたらす副鼻腔理想解放状態を得るポテンシャルは誰にでもある。富める者も、貧しき者も、健やかなる者も、病に苦しむ者も、男も、女も、老いた者も、若き者も、凡人も、才人も、善人も、悪人も、罪人も、である。だが悟りを誰もが目指すべきものだというのはただ一つの価値観にすぎず、それもまた煩悩や我欲のなせる業である。また悟りを得たいと追求する姿勢も悟りを得させたいとする姿勢もまた我欲の現れにすぎない。

 極端な話、副鼻腔理想解放状態が悟りの境地をもたらすものであるのなら、社会的タブーや犯罪を犯している真っ最中であろうと悟りを得ることは十分にあり得る。それは物理現象だからだ。善行を行ったから副鼻腔理想解放状態に至ることができるという主張はそれこそ論理の飛躍があって信念や願望にすぎない。また副鼻腔理想解放状態への移行はアナログ的で厳密にはゆらぎがあり、通常の人間的な自我や生物的な欲求は併存するのである。宗教としての悟りの概念が膨張したゆえの誤解であると考えられるのだが、仏教的な文脈で言えば悟りは煩悩から離れるのであって煩悩が滅却するわけではないのである。悟りを開いた釈迦でさえも自分の故国の危機には3回は介入するという政治行動をしているのである。結局、各自の行動はそれぞれの意思に委ねられるのだが、副鼻腔理想解放状態の仮説からはこれからの時代はより適切な方法が模索されていくと思われる。