ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りの側面3 終末論について

(悟りの側面3 終末論について)

 また伝統的な宗教であっても終末論の類は宗教装置の典型例であろう。人が生物種である以上は何らかの要因が重なれば絶滅することはありえるし、より時間的、空間的スケールが大きくなれば星や宇宙が崩壊することもありえる。だが終末論の言うようなある日突然に超越する存在が現れ、ある者には救いを、またある者には裁きをもたらす、という言説は教団の権力を強化維持するための社会装置にすぎない。

 超越する存在は基本的には世界の根源となるシステムにすぎないので、そこに基礎づけられた実体世界には干渉できないと考えられる。干渉してしまえば、それは主体を持つ何らかの存在となり世界の根源たりえなくなるからだ。有の存在もウロボロス的限界に阻まれているように「無を司る何か」もまたウロボロス的限界に阻まれているのであろう。

 結局、キリストの再臨をはじめとする終末論のたぐいは、後の教団が創り出したもので、キリスト本人が得た啓示とはあまり関係がないと思われる。しばしば終末論者は天災や戦争などの災厄を自論の論拠として結びつけ人々の不安を煽り、自らの権力を強化しようとする。だがそれら災厄の犠牲者は罪人と断ずることはあまりにも無理があるだろう。彼らは災厄を免れた人々と同様に普通の人々であるからだ。災厄の犠牲者は運が悪かったか弱者であったというだけで、彼らが悪として処断され浄化されたわけではないのである。こうした終末論の言説は反証不能性につけこみ宗教装置として悪用した事例であろう。偉大な宗教者であっても大なり小なりこうした宗教装置の力を利用してきたことは忘れるべきではないだろう。宗教が宗教である以上はこうしたものも含むのである。

 宗教や宗教団体が全て害悪であり無意味であるとは思わない。だがそれらが真の意味で人々や社会に役立つものとなるには前提がある。それは本質的に欺瞞、矛盾、腐敗、堕落などを蓄積的に生み出すことを避けられないシステムを持つ宗教や宗教教団が透明性を確保し速やかかつ適切な自浄作用を維持できるか否か、である。

 本来、悟りの根幹である副鼻腔理想解放状態の維持(それは東洋的伝統の文脈で言えば第6、第7チャクラが通り、上丹田ができることだが)さえできれば、教義や戒律や信仰(=暗示)は一切不要と考えられる。教義や戒律や信仰は人々に概念を伝え残すことはできたのだが、それはやがて形骸化し、歪曲、腐敗し人を支配、統制していく原因でもある。人を救うはずの宗教が人を苦しめてきた悲惨な歴史を我々は直視しなければならない。