ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りの側面2

(悟りの側面2

 こうした論考から言えるのは、釈迦が到達した悟りの境地と彼自身が残し現在に伝わる教義や宗教は基本的には別物であり独立したものであることが推測される。別の言い方をすれば釈迦の教えを守り、大切にするあまりに、釈迦が伝えたかった悟りの本質を見失ってきたとも言える。

 結局のところ宗教教団は仏教に限らず、教義と信仰、そして布施と功徳(救い)という権力システムに依存する。教団と結びついた多くの言説、慣習やシステムは教団を維持運営するために発明された社会装置であって、釈迦本人が得た悟りの本質とは無縁のものであると考えられる。つまり宗教化し集団を成すことは必ずしも悟りの本質と直結しない。出家をしなければならない、というものでもない。念仏を唱えれば救われる、というものでもない。たとえそれらが困窮する民衆を多少なりとも救おうという意図があったにしても残念ながらそれらはただの逃避、暗示であろう。そしてそれも単なる教団関係者の生活手段や集金装置と化してしまえば堕落以外の何者でもない。悟りや救いを目指すのは一つの目標であるがそれすらもとらわれるべきではない。なぜなら悟りや救いを目指すという行為も我欲の発露であって、それがやがて腐敗につながるからだ。

 結局、自らの人生は自らが何らかの形で収入を得て生計を立てていくべきであろう。もちろんそれは布施という形であってもよいし、そうしたあり方を否定するものではない。布施で生活してもよいのである。が、現状、特に日本のほとんどの仏教関係者はそのあり方に大きな欺瞞を抱えているのは否定できない事実であろう。彼らがもし本当に悟りを目指すのであれば、伝統や権威、パフォーマンスにすぎない苦行をはじめとする既得権を全て捨て、社会の底辺に身を起き、そこで始めて布施を求めながら悟りを目指すべきであろう。富む者が天国に入るのは難しいというのはキリストの言葉であるが同じことが該当してしまう仏教関係者は少なくないだろう。何より釈迦本人が今の変質した仏教の在り方を見たとき、それらが似て非なるものに堕してしまったことを嘆くであろうことは想像に難くない。