ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りの段階2 副鼻腔理想解放状態から見る悟りの見解

(悟りの段階2 副鼻腔理想解放状態から見る悟りの見解)

 さて副鼻腔理想解放状態という観点から悟りを語れば、悟りは以下のように分化できる。すなわち通常の状態、準悟りの状態、悟りの状態である。

 通常の状態は多くの人間が一生を過ごしていく状態であり、仏教用語の位置づけで言えば凡夫であり、不覚であり、十牛図であれば第一段階の尋牛、第二段階の見跡の段階であろう。またより一般的な状態を軽度の鼻性脳神経症候群でより病的なものは重度の鼻性脳神経症候群とさらに細分化し位置づけることができる。

 そして何らかの要因で副鼻腔理想解放状態を経験すると準悟りの段階に入っていく。ただしその状態は必ずしも持続せず、しばしば元の状態に戻ってしまうことが多い。場合によってはそれは生涯でただ一度きりというケースも考えられるが、段階が進めば副鼻腔理想解放状態に至る頻度は高まり、やがてはある程度のコントールが可能になっていくと思われる。この準悟りの段階が仏教用語で言うところの始覚であり退転位であり、十牛図で言うところの第三段階から第五段階の見牛、得牛、牧牛であろう。江戸中期の僧である白隠の言うところの悟後の修行はこの段階のことと思われ、副鼻腔理想解放状態の再現、維持、コントロールのための努力を指していると思われる。(なお退転位は二分法的に捉えられてきたが副鼻腔理想解放状態の議論からは退転すらしない凡夫の状態、退転位、不退転位(聖:ひじり)の三分化にできるだろう。悟る、悟らないの二分法で言えば、悟った者が不退転位の聖(ひじり)であり、悟りを得ていない者は凡夫、退転位の者と言えるだろう。そして始覚という段階は悟りに準じるものであって、まだ悟りではないのである)。

 そして最終的には副鼻腔理想解放状態は安定化するようになる。これが悟りの段階である。仏教用語で言えば正覚であるし、不退転位(聖:ひじり)であるし、十牛図で言えば第六段階から第十段階の騎牛帰家、忘牛存人、人牛倶忘、返本帰源、入鄽 垂手であろう。なお十段階目に入ってようやく利己から利他へと向かうところは示唆的であろう(十牛図が伝わる禅宗は己以外の他者の救いも目指す大乗仏教の一派であることに注目してほしい)。知識化、形骸化した表面的な善行は偽善にすぎないと言える。もちろん偽善であってもそれは日常生活を円滑に行い、不用な争いを未然に防ぎ、物心の援助になるのであるから功利的、つまり役に立つものとは言えるだろう。

 なお悟りについてはこの段階で完成になるのだが、人間そのものの持つポンテンシャルを考えれば悟りもまた一つの能力や認識にすぎないと考えられる。身体的な能力はもちろん知的な部分でも未開の部分は多く残されたままであるからだ。ありていに言えば、悟りを開いたからといって100メートルを9秒で走るわけでも、プロスポーツ選手のトップになれるわけでも、学問、ビジネス、政治などの各分野で優れた業績をあげることができるわけではないのである。また親、親戚、友人、子供、夫、妻、異性などとの関係が最良のものになるわけではないのである。それゆえに悟りを完成させた者は悟りの境地に囚われることなく悟りを越えた段階に進んでいくと推測されるのである。もちろんそれは通常の凡人が考える我欲の追求とは次元が異なるものであることは言うまでもないが、悟りの全体像から見れば悟りの完成は人間そのもののポテンシャルの完成を意味するわけではないと推測されるのである。

 こうした悟りの段階を図示すると以下のようになる。

表 悟りの段階

段階

解説

二分法

三分法

本覚思想の観点
大乗起信論

華厳経の観点
(悟りの52位)

十牛図

1

通常の人間。
当然ながら個人の遺伝的才能、環境の違いで発揮できる能力に大きな違いは存在する。
軽度~重度の鼻性脳神経症候群の状態にあるがそれを自覚できない。

常人

常人

不覚

凡夫
(一時的にも悟れない状態。いわば不退転はおろか退転すら起きない状態)

尋牛(じんぎゅう)
牛(悟り)を得ようと決心したが見つからない段階。生物学的に人である以上は悟りの境地を得るポテンシャルはあるものの、多忙な日常や既存の社会の競争原理に埋没してしまい悟りの境地から遠ざかっている。

2

見跡(けんせき)
悟った者の残した跡である経典や修行法などをたよりに努力はするものの、悟りが何か理解できず、またその境地も体感できない。

3

副鼻腔理想解放状態を経験している。
その頻度が高まっていく傾向があり、またある程度のコントールが可能になっていく。
ただし元の状態に戻ってしまうこともしばしばある。

準悟り

始覚

退転位
退転(つまり悟りを失い元に戻ってしまう)することがある。一時的、一過性ではあるものの悟りに状態に入ることができる。ただし些細なことで元の状態に戻る

見牛(けんぎゅう)
一過性ながらも牛(悟り)の境地を体感し、垣間見ることができる。

4

得牛(とくぎゅう)
悟りの境地を恒常的に維持できない状態で、制御が難しい状態。時には悟りの境地を見失い元に戻ってしまうこともある。

5

牧牛(ぼくぎゅう)
牧場で飼う牛のように、悟りの境地をある程度はコントロールできるようになった状態。

6

副鼻腔理想解放状態を維持、持続できるようになる。
丹田、第6、第7チャクラは完成の域に達し始める(ただしそれは悟りという能力に限定される)。

悟り

悟り

正覚

不退転位
退転することがなくなり、文字通り不退転となる。いわゆる聖(ひじり、聖者)と分類される

騎牛帰家(きぎゅうきか)
意識的なコントロールは不要になり、悟りの境地が恒常化した状態

7

忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)
悟りの境地の定着化が一層進んだ段階。ただ存人の言葉のとおりまだ自我は残る。

8

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
悟りを得ようとした理由を忘れるほどに、自我と悟りの境地との一体化、深化が進んでいく。

9

返本還源(へんぽんかんげん)
悟りの境地をもたらす万物の根源へ還ることで自我の意識と一体化していく。

10

悟りに関する上丹田、チャクラは開発上限に達する。
言動は利己から利他へと向かう。
ただ完成したのは悟りという能力に関するもので人間全体の持つ能力のポテンシャルからすればそれは一部にすぎない。他の知的能力などは別に独立していると思われる。

入鄽垂手(にってんすいしゅ)
悟りの境地が万物の根源との一体化であるので、その境地に留まることをよしとせず、自らとは別の万物の根源とつながりうる存在や事物のために世俗へ戻っていこうとする。

10以降

悟りを超えた世界へ入っていく。

 

 ※追記:なお十牛図で牛が人の求めるものの対象とされた理由として、発祥が仏教と同じくするインドの牛を神としたヒンドゥー教バラモン教の聖牛崇拝の影響と考えられる。ここで扱われる牛は神や悟りの象徴を意味しているだけである。当然ながら即物的な意味で人が牛になることを求めたり、牛の気持ちになるということではない。誤解がないように念のため。

 

※追記:いわゆる禅宗で言われる「見性(見性体験)」や「初関を通る」という段階は準悟りや十牛図で言うところの「見牛」であろうと推察される。そしてその後のプロセスを聖胎長養、大悟徹底、悟後の修行などと名付け位置付けたのだろう。ただ論者によってはこれを十牛図の3段階目の「見牛」ではなく、6段階目の「騎牛帰家」をスタート点とする者もいてしばしば混乱と論争の元になっている。そして同時にそのプロセスが一気に悟りへと到達する「頓悟型」か、それとは逆に徐々に悟りへと到達する「漸悟型」かでも問題が絡み合い認識の混乱と論争がみられる。なお西洋的な文脈で言えば、これらは初めて神秘体験や啓示を受ける段階と言える。