ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りは言葉では伝えられないとされた理由1 出現率の低さ

(悟りは言葉では伝えられないとされた理由1 出現率の低さ)

 まず悟りに達する者の出現頻度、確率が低すぎたという問題である。

 もともと悟りを開くことができた者はごく限られていると言われている。それは仏教徒の総数に対して悟りを開いたと評価された者の割合を考えれば分かるはずだろう。もちろんそれは他者からの評価にすぎず、しかも悟りへの具体的な概念定義がないままでの評価であるからそれは極めて曖昧なものでしかない。だがそれでも自称、他称、僭称を含めても悟りを開いたとされる者の割合は天文学的な確率の低さであることは確かであろう。正確な数字は分からないが確率的には1%以下であろう。それはラクダが針の穴を通るより難しいというキリスト教のたとえがそのままあてはまりそうな現象である。

 そうした出現率の低さでは情報の共有はもちろん解明はさらに困難となる。たとえば色盲などで赤色が見えない集団がいたとしよう。その中で突如、赤色を認識できる個人が現れたとしても、残りの成員は赤色という概念やその主張をする個人を受け入れることが難しいことは想像に難くない。混乱が生じるからだ。赤色の概念が集団に受け入れられるのはその集団にとって何らかの利益が生じたか、逆に不利益が生じなかったケースだろう。悟りの場合、悟りから派生したブッダの言動すなわち教義、戒律、修行法などが個人や集団の利得や安定に有効であったために、悟りそのものについては理解できなくとも、受容されたのだろう。

 赤色のたとえに戻せば、集団の成員が赤色の概念を受け入れたとしても、成員のほとんどが実際には赤色を認識することができない状況である。自らの五感で確認できず、計測器や理論、知識などの代替方法もない以上はその認識や論理に誤りがあってもそこに気づけず現象の解明は困難を極めることになる。それと同様のことが悟りという現象にも当てはまると思われる。

 それは悟り同様に未解明な領域である心、意識、魂という問題とは対照的である。心、意識、魂などは多くの人間がそれらを自らが持つという確信を持っている。それ故にその概念や情報は確かなものとして共有されているのだが、悟りの場合、悟りの境地に至った者が極めて少ないために社会や集団の中で悟りの感覚が共有されることはまずなかった。その共有度の差が悟りを言葉で伝えることができないと言われてきた一つの理由だろう。


(理由1の補足)

 なお、時代を経るとともに人間の身体能力が大幅に低下せざるをえなくなり、相対的に悟りを開く者、もしくはそれに準じる者の出現確率がさらに低下してしまったことも影響していると考えられる。特に産業革命以後の近代社会が成立してからはその傾向が強くなる。それは近代的な思想が前近代的な概念の代表とも言える宗教から力を奪っていったからでもあるが、たとえ資本主義や法治主義、科学的合理主義という現代的な概念が発達したとしても悟りというものが現実に発生する現象であるならば、悟りもまたそうした現代的な概念と反することは本来はないはずであろう。消滅するとすればそれは周辺的な盲信や迷信の類であるし、実際、現代的概念は宗教のそうした部分を明らかにし駆逐してきた。これは逆に言えば、現代社会に残りやすいのは物理現象としての悟り、それは真の悟り、悟りの根幹とも言えるものとも推測できるのである。