ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

第1章 「悟りとは何か?」という問い

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(「悟りとは何か?」という問い)

 釈迦が仏教を開いてからおよそ2500年という時間が過ぎた。そしてインド北部から始まった仏教は上座部、大乗などの多様とも言える分派を繰り返しながらも中国や日本をはじめとして東アジアに広がり今日を迎えている。そしてグローバル化に伴い、信仰の有無はともかくとして知識としてはキリスト教圏、イスラム教圏など世界的に広がりを見せている。つまり本人が望むのであれば基本的には世界中の誰もが仏教の教えや思想に触れることができる状況になっていると言える。(またそれはキリスト教イスラム教も同様ではある。)そうした仏教が分派、拡大していく間、実に多くの高僧や分派の開祖が生まれ、様々な試みや研究が行われると同時に追求されてきたことが「悟りを開くこと」であった。それは各派によって多少の主張は異なるかもしれないが、仏教における最大目標の一つであることは疑いようがない。

 が、しかし、である。

 不思議なことにこの「悟り」というものが何を意味するのか分からないままに悟りが追求されてきたのも仏教の歴史であった。

 この論文はその答えを仮説ではあるものの提示し後世に残そうとするものである。それは言わば、私からの後世への手紙とも言える。慎重を期すためにこれはあくまで私個人の仮説であると改めて断ってはおくが、私はこの論考がいつか悟りという現象を人類が解明したときの一助になるとは考えている。では前置きはこのくらいにして「悟りとは何か?」という問いとその答えへの探求を始めたいと思う。