主体は認知のウロボロス的限界を超えた時に「無」を認識する
(主体は認知のウロボロス的限界を超えた時に「無」を認識する)
人は副鼻腔理想解放状態になると、認知のウロボロス的限界を超え始める。その時、主観としては「無(ゼロ、また仏教的な説明では無我や空とされたもの)」を認識すると思われる。これは通常の認識では「何も認識できない状態」から「無を認識する状態」への変化である。言い換えれば「何も認識できないこと」と「無を認識すること」は異なるのである。そして原則として主体は主体の根源を認識できないという認知のウロボロス的限界があるが、その限界を超えて認識したのは「無」である。そこから主体の根源や万物の根源は無(ゼロ、無我、空)であるという論理が成立すると考えられる。おそらく釈迦を始めとする覚者が認識した悟りや解脱の境地は万物の根源である「無を司る何か」を認識した結果であろうと考えられる。
これが悟りの境地に至る論理的なプロセスであるし、やや複雑と思われるのでもう一度、図表として記しておこう。
表 認知のウロボロス的限界と悟りの境地への論理的プロセス
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原則として、主体は主体の根源を認識できない(認知のウロボロス的限界)
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副鼻腔理想解放状態により認知のウロボロス的限界を超えはじめた結果、一時的、または断続的に主観としては「認識できない現象」から「無を認識している現象」と変化する。 |
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その結果、原則である認知のウロボロス的限界と踏まえて、主体の限界を超えて認識したものが「無(ゼロ)」であるから、主体の根源や世界の根源は「無(ゼロ)」であるという論理が形成されると考えられる。 |