ウロボロス観測所

主に悟りについて哲学的、社会学的な考察(のバックアップ)

悟りの側面1

(悟りの側面1

 ここでは多少重複するが補足として物理現象としての悟りの側面について述べよう。悟りが副鼻腔理想解放状態の維持であることは述べたが、そこから導き出されるのは従来の悟りについてのイメージが多分にして誤りを含むと思われるからだ。

 確かに副鼻腔理想解放状態は高雅で清浄な心境をもたらすが一個の人間個人であることは変わらない。同時に生物学的な人間としての器官、すなわち脳や骨格、内蔵、筋肉、皮膚などは通常の人間と同一の性質を持つ。したがって悟った当人も生物学的な生理欲求、つまり食欲、性欲、睡眠欲、また社会的存在としての名誉欲や承認欲求、自己実現欲求などの各種の欲求が完全に消失するわけではないと考えられる(消えるわけではないというのは重要な視点だと思われる)。そのため仮に完全な悟りの境地に達したとしても生物的、社会的な意味での人の生存を主な目的として追求する生き方から相対的な距離を置けるだけであろう。またそれは仏教における中道という概念にも該当する。

 通常、流布している悟りのイメージと言えばそうした欲求や煩悩と完全に切り離された存在と考える傾向が強い。端的に言えば、断食を行っても死なず、睡眠を取らずとも平気で、性的な欲求や誘惑、金銭や地位への欲求、各種の苦痛や不安に対しても一切動じない、などである。しかし、それは後の世で作られた悟りのイメージ、すなわち宗教装置としての悟りであり、超人幻想であろう。悟った人間であっても生物学的な意味で人間である以上、そうした人間らしさは併存して保持し続けていると考えられるのである。当然ながら喜怒哀楽や時間経過による肉体的変化、そして死とも無縁ではない。仮に死を克服できるのであれば悟りとは別のメカニズムやテクノロジーが必要であろう。

 また悟りが物理現象で身体性の意識や感覚である以上、逆説的には死人には悟りの境地は得られない。人、生物、物質は死ぬ(主体を失う)と無(世界の根源)に還ると考えられる。仏教では死を一つの完成とみなす宗派も少なくないのだが、それは悟りの本質から離れた宗教的解釈にすぎないと考えられる。

 そして悟りは意識や感覚であるので実際の個人の持つ技術や知識には影響は与えつつも基本的には独立しているものだ。そのためたとえ悟りを得たとしても現代社会のように高度に知識化、分業化が進んだ社会においては必ずしも社会的適応能力が向上するわけではない。もっと端的に言えばその個人の地位、名誉、収入、異性や友人との交友関係の良否などは保証しないのである。

 加えて悟りという現象は人間の持つ可能性としては必ずしも唯一絶対の完成ではないことも示唆されるのである。これは既存の仏教関係者には受け入れがたいことなのかもしれない。もちろんそれは無上に高雅で清浄な境地をもたらすものではあることも確かだが、悟りを解明する過程では必然の帰結かもしれない。人間の持つポテンシャルを全て開発するという意味では悟りであっても通過点にすぎないと言えるのである。悟りの先があるということはまだ人間の持つ膨大な領域のフロンティアが残されているという意味であるわけだから、無論それは喜ばしいことであるとは思われる。

 

各地に残るウロボロスの伝承と龍退治とゼロの意味

(各地に残るウロボロスの伝承と龍退治とゼロの意味)

 自らの尾を食べる蛇はウロボロスと呼ばれ、それに類する図は世界各地で伝えられてきた。そしてウロボロスの名の由来は古代ギリシャ語で「尾を飲み込む蛇」を意味する「ドラコーン・ウーロボロス」から転じたものとされる。またこのドラコーンという語は後のドラゴン(龍、竜)の語源になったと言われている。一方、世界各地の神話や伝承には龍退治の伝説が残っている。そこでは様々な解釈があるが、一般論としてはドラゴンは悪の象徴であり、それを英雄が倒すことで秩序や平和がもたらされるというものだ。神話や伝承ではドラゴンは翼を持つ怪物や架空の生物、何らかの実体として考えられてきたが、認知のウロボロス的限界という考察からは別の視点をもたらす。

 ドラゴンを倒す(龍を倒す)という意味は実体としての何らかの怪物やモンスターを倒すという意味ではない。その本当の意味は「無」とは別にウロボロスが持つもうひとつの象徴的な意味にある。既に何度か説明してきたが、ウロボロスの図が意味するのは主体の根幹を破壊することでなそうとする行為はその自己破壊性ゆえに成立できない、というものだ。それはまた主体の限界も象徴していると考えられる。

 そこからドラゴン(ウロボロス)を倒すということは主体の限界を超えるという象徴的意味が付加されたのだろう。そしてここでいう主体の限界を超えるとは、個や我の最適化や最大化という概念を超えることを意味したと考えらえる。ウロボロス的限界の範囲内で生きることは、個や我の最適化を意味しており、それは端的に言えば我欲、利得、勝利の追及である。別の言い方をすれば弱肉強食の世界の中で勝者を目指し、勝つことにのみ意味と価値を見出す勝利至上主義、生残至上主義、また生産性や生殖性の高さを追求する論理でもある。力、金、権力、交友関係、身体や知的能力、美醜、地位、名誉、etc、の質と量が優れている方がそうでないよりも価値があるという価値観である。それがウロボロスの論理であり、悪とみなしたからこそドラゴン(ウロボロス)は悪の象徴となり、それを倒し超越することに意味を見出したのだと考えられるのである。

 それだけで必ずしも完全無欠の人間になるわけではないことは強調しておかなければならないが、認知のウロボロス的限界を超え始めた者は、比較して精神性の高い言動を生み始める傾向があると思われる。そうした高い精神性を伴った言動や生き方は人類普遍の価値があるものと考えられたゆえに世界各地で龍退治の伝承が残されたと考えられる。そして認知のウロボロス的限界を打ち破ることが悟りであり、人の生きる意義や目的であると我々に伝えたかったのかもしれない。

 またおそらく数字のゼロ(0)がなぜ円で表現されるかと言えば、無を表現したウロボロスの図がより単純化し、記号化したものであると考えられる。


色即是空、空即是色の論理モデル

(色即是空、空即是色の論理モデル)

 大乗仏教の経典である『般若心経』は仏教の根本が短い文章でまとめられているとされる。般若心経を中国語に訳したのは大唐西域記で有名な唐代の僧、玄奘であるが、この経典の中で最も有名なのが「色即是空、空即是色」の言葉だ。これはたった8文字ではあるものの仏教の説く一元論が表現されたものである。様々な解釈がなされているが基本的には「色」は「人や物質などの実体」で、「空」は「実体がないこと」を意味するとされる。また「即是」は「すなわちこれは」の意味である。そして直訳すれば「色即是空」が「実体には実体がなく」、「空即是色」は「実体がないものは実体である」となる。英語では「form is emptiness, emptiness is form」などに表現されている。まさに三位一体説と同じく矛盾した表現である。そのため理解に困難を伴い、実際のところ様々な飛躍した解釈がなされてきたのだが、こうした論理もアルケー「ゼロ」論と万有意識論の論理モデルでは簡単に説明できる。

 ここで重要なのは「即是」の解釈である。これはおそらく最も初期の経典が書かれた時点で解釈に誤りがあったのだろう。「即是」は日本語で言う助詞の「は」や英語で言うbe動詞にあたる。数学で言えばイコール(=)である。だが、これが決定的な誤りであったのだろう。おそらく釈迦が「色」と「空」の関係性を表現するために意図したのは日本語の「は」やbe動詞、イコール(=)ではなく、接続や結合(connect, combine)を意味するものであったと考えられる。


従って従来は、X=, Y=空とするとして、


 X≠Yのとき、X=Y また Y=X である。

 

と矛盾していた記述だったのだが、このイコール(=)ではなく何らかの接続関係を示す記号を用いればよいのである。ここでは一例として「(接続) 」や「(connect) 」という表記を用いるとすれば、

 

正しくは、

 

 X≠Yのとき、X (接続) Y または Y (接続) X である。

 (英語で表記すれば、X≠Y, X (connect) Y Or Y (connect) X であるし、

  数学的には、X + Y = Y + X とも表記できるだろう。)

 

と表記されるだけなのである。

 ちなみに表記についてはイコール(=)の代わりに接続(connect)を意味するものであれば何でもよいのである。例えば悟り(satori)によって実体世界と世界の根源がつながるのでそうした表現に敬意を表して、


 X≠Y, X satori Y Or Y satori X

 

と表記しても良いのである。

 また全く同じことであるが、ここで使われた X とY を世界の根源である「無を司る何か」を0、実体世界を1として、

       X=1,Y=0 とすれば

       XY である(つまり 1≠0)

 そして実体世界と世界の根源は悟りの境地によって連結されるため、その関係を

       1 satori 0  または  0 satori 1

ともシンプルな式で表現できるだろう(繰り返すが決して、0=1 や 1=0 ではないことに注目してほしい)。

 

 つまり、現代的な日本語で言えば、般若心経の「色即是空、空即是色」は「実体世界は世界の根源とつながっており、また世界の根源は実体世界とつながっている」というだけなのである。そしてそうした表現を己の心身で体感できるのが悟りの境地なのである。また、なぜ世界の根源が「空(ゼロ)」とされたかと言えば、認知のウロボロス的限界の考察で述べたように、「無」つまり「認識できないもの」が主体や世界の根源であるという見地に立つからである。そして仏教ではその万物の根源である「無(厳密には「ゼロを司る何か」)を「空」と呼んだのであろう。

 何らかの存在が存在として成立するためには、その前提として無が必要となる。なぜなら無、厳密には「ゼロを司る何か」が基準となるからこそ有が成立するからだ。有だけの世界は原理的には存在しないのだが、通常、我々の常識的な認識で言えば逆である。物体であれ精神であれその存在が有ることを自覚する有のみの世界に身を置いている。そこではむしろ無を認識できない。有だけの世界に見えるのはまさしくその認知をする主体が有の世界の住人であるからであり、そう見えるのは無を認識できないゆえに起こる知覚、認識であろう。だからこそ認識できない無こそ世界の根源とする考えに至ったと考えられる。

 もちろんそれは悟りの境地がもたらしたと思われる理論モデルであり、まだ仮説にすぎない。このことは繰り返しになるが述べておく必要はあるだろう。

 

追補:禅問答 狗子仏性(くしぶっしょう)

 またこうした観点に立てば代表的な禅問答「狗子仏性(くしぶっしょう)」を読み解くこともできるので傍証としたい。

 「狗子仏性(くしぶっしょう)」は前述した「隻手音声」と同じく代表的な禅問答である。これはある修行僧の弟子が師である趙州和尚に以下のように質問したものである。そこでは弟子が「犬にも仏性があるのでしょうか?」と尋ねたが、師(趙州和尚)はただ一言「無」と答えたものである。

 この禅問答は「無」が二重の意味で用いられていることに気づきさえすれば容易に読み解くことができる。表面的にはここで用いられた「無」は「ない」という意味であった。そのため前提として、全てのものには仏性が宿るという仏教の教義と矛盾するために理解に困難が伴うものとなっている。

 だが趙州和尚の真意はそうではない。ここで用いられた「無」は万物の根源である「無を司る何か」を意味していると考えられるのである。そうであれば趙州和尚の言う「無」は妥当なものになりうる。なぜなら犬も存在である以上は当然ながら万物の根源である「無を司る何か」とつながっており、また仏性とは個の限界を超えて万物の根源である「無を司る何か」と連結したときに生まれる性質を示すものであると考えられるからだ。そこで「無」つまり万物の根源と答えることで従来の教義の通り犬であっても仏性を持っていることを示したのであろう。要はこの「無」は日常言語の「ない」と万物の根源を示す「無を司る何か」をかけたものであり、悟りの境地に達していれば、この問答の真の意味が理解できるようになっている検算のようなものなのである。

 ではなぜこのような不親切で回りくどい表現をしたのか? それはこうした知識を表面的に覚えるだけでは意味はなくなってしまうためであろう。悟りを知識ではなく意識や感覚として体感することが目指すべき目標であったからこそ、こうした禅問答の直接的な解答や解説は師からは伝えられることはなかったのだろう。

 こうした禅問答を残したことからも趙州和尚はじめとする数少ない高僧は悟りの境地に達していたことは確かであろう。ただその方法論は同時に欠点も伴っていた。特に彼らの死後はそれが顕著となる。彼らは不立文字、以心伝心という言葉で代表される言語や記号で考え伝えようとすることを半ば放棄したために弟子たちが誤った解釈をし、教えの本質を歪めてしまったことを防ぐことができなかった。それは後に頓智や揚げ足取りのような表面的な言語パズルと化して本質を失った中国禅が滅んでしまったことが何よりの証左であろう。

 

表 狗子仏性の「無」が持つ意味の二重性と仏性の意味と解釈

表現

意味

解釈

「無」の答え1

無い(ない)

犬は仏性を持っていない。
全てのものは仏性を持つという教義(一切衆生悉有仏性)と矛盾してしまう。

「無」の答え2

万物の根源である「無を司る何か」

犬もまた存在である以上、万物の根源である「無を司る何か」とつながっている。
したがって犬も仏性を持つ。

仏性

仏としての本質、仏になるための原因

実体世界と世界の根源である「無を司る何か」と連結している体感(意識や認識)。
なお通常は人であっても、動植物、事物であっても認知のウロボロス的限界により連結はしていない。
ゆえに通常、犬はポンテシャルとして仏性は持つが悟りはまだ開いてはいない。

 

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追補2:無限(infinity,∞)とゼロ(zero,空)と存在(1)について

 

『色即是空 空即是色』の論理モデルとしては本文で述べたが、悟りや啓示の説明でゼロ(無、厳密には『無を司る何か』)のほかに無限(infinity,∞)が説明に用いられることもある。無限については経典では触れられてはいないが通常、一般的な認識としては、

 
 1≠0≠∞ (存在も無も無限もそれぞれ異なるものである、の意)

 

であるが、従来の悟りの説明としてはこれが『色即是空 空即是色』的な説明として、


 1=0=∞ (存在と無と無限はそれぞれ同じものである、の意)

 

などとされ矛盾した表記になる。

 こうした説明は悟りの領域に達した者でも非常によく見られることなのだが、これは学術的には誤りであろう。正しくは

 

 1 satori 0 satori ∞ 

 

と言った表記になると思われる。

なお、ここで用いられた「satori」は本文で述べたように結合や接続を示す記号であれば何をあてても良いのは同様である。別の例としては、

 

 1 connect 0 connect ∞

 1  (接続)  0  (接続)  ∞

 

 でも良いのである。

従って『色即是空 空即是色』のように存在と無を規定するモデルとしては、

 

 0 satori 1  (または 1 satori 0)

 

が用いられ、個体と宇宙を統合するモデルとしては

 

 1 satori 0 satori ∞

 (物質は万物の根源である「ゼロを司る何か」と連結し、「ゼロを司る何か」は万物(つまり無限の宇宙)と連結している。)

 

が用いられると思われる。

 ただゼロ(厳密には「無を司る何か」)と無限(厳密には「無限を司る何か」)との関係が相が異なるだけの同一の概念なのか、それとも別概念なのか今の段階では判然とせず保留事項である。ゼロ除算の考察(例えば 1/0 = ∞、1/∞ = 0、など)に見られるとおりこのあたりの問題は後代への宿題であろう。

 

 

 

予言者 神の啓示を受ける者、救世主、覚者、教祖

(予言者 神の啓示を受ける者、救世主、覚者、教祖)

 ここで問題となるのは神は教義(言葉)から生まれる意識であるため不変ではなく時代ごとに変化が起こることである。主にそれは最初の教義が作られた時には想定していなかった問題が起こり現実的な選択を繰り返す中で変化していったものである。それは世俗化や堕落と呼ばれることもあるし実際にそうであることも多いのだが、宗教が拡大していくプロセスでは避けられないものでもある。ただその結果として神の意識も変質してしまう。そして各時代にまれに現れる宗教家や覚者たちと齟齬を生じることになるのである。彼ら世界の根源である「ゼロを司る何か」を認識する者たちは変質した教義と神の意識との差に気づくようになるため、教義の修正を試みようとするからだ。これが基本的に宗教が分派分裂を繰り返す原因であろう。世界三大宗教もまたその始まりは分派としてであった。

 ただおそらく名だたる宗教家や覚者なども啓示に対する認知や言語化については完全ではなかったのだろう。またそれぞれ得手、不得手、レベル、能力、時代、環境などが異なりそれらが影響したのだろう。そのため混乱をもたらした部分も少なくない。結局、同じ現象に対して「群盲、象を撫でる」がごとく異なる主張を行ったために、信者に対しては新たな安定をもたらす一方で異教徒に対しては対立を生み出したと推察できるからだ。

 後の世に混乱と対立をもたらした原因は、実体世界との中間領域にある神(意識)と万物の根源である「無を司る何か」との区別が難しかったためであろう。それは結局、意識を介してアクセス、接続するがゆえだと考えられる。理論的には三分されるのだが、認識者の視点によって一元とするか、二元とするか、三元とするかで認識が分かれてしまいやすい。ただそれらの視点から見れば必ずしも誤りではない。

 

例を挙げれば、

 

 一神教タイプの神を置く宗教は、

  「人」 と 「神(意識)+「無を司る何か」」

 ととらえて二元化する。

 

 多神教タイプはこの変形で、

  「人」 と 「神の総体(神々の意識)+「無を司る何か」」

 ととらえて二元化する。


 インド哲学(二元論の立場)では神(意識)を置かずに、意識は人に属すものとして

  「人」 と 「無を司る何か」

 で二元化する。

 

 また一神教タイプでもキリスト教は前述のように、

  「人(キリスト)」と「神(意識)」と「精霊(無を司る何か)」

 と三元化する。


 そして仏教やインド哲学(梵我一如の立場)は神(意識)は置かずに意識は人に属するものとして、

  「(人+意識)+「無を司る何か」」

 と一元化して捉える。


などの関係であろう。

 

 また既に知られているように異教徒に対し排他的な行為を教義とする宗教も珍しくない。排他行為によってその集団の結束力が強まり信仰(暗示)の力が増すからだ。また必ずしも宗教教団の教祖の全てが万物の根源である「無を司る何か」や神の意識に接続できたわけではないと思われる。既存の教義を換骨奪胎し、権力と金品を得るための手段として利用した人物も相当数に存在するのは歴史が証明している。もちろんそれであっても新たな神の意識を作り出すのだが、本質的にはあまり意味をなさないのは言うまでもないだろう。神というのは結局のところシステムの一つにすぎないのである。

 世界の根源である「無を司る何か」を認識し、そこから宗教を作り出したことは無意味なことではなかったとは思う。だが、これからの時代の要請の前ではそうした新たな宗教を作り出していく営為は過去のものとなっていくだろう。宗教の名の下に悲惨な現実が生み出されてきたのだから、いずれ人々はその教えと信仰を捨てざるを得ないときが来るのである。まだ軽く見積もっても数百年から千年ほどはその力を維持するであろうが、世界の根源や神と言ったものが解明されていくことで宗教の役割は次の段階へ向かうことになるだろう。


神とは何か? 神とは教義(言語)が生成する意識

(神とは何か? 神とは教義(言語)が生成する意識)

 ここで必然的に「神とは何か?」という問いにひとつの答えが導き出される。まず啓示宗教で用いられる神に話を限定するが、神とは教義(言語)を源泉にして生成された意識であるということだ。この点を理解していたからこそ聖書には「はじめに言葉ありき」という文が書かれたのであろう。別の言い方をすれば、人が教義や戒律を生み出していく過程で生成されたそのコード全体の意識が神なのである。そして神を生み出す教義(言語)は、宗教的指導者など認知のウロボロス的限界を超えた者が世界の根源である「無を司る何か」を知覚し、啓示を受けたとして、その意識や感覚を言語化したものであると考えられる。ごく簡単に言えば人が神を生み出したのである。

 なぜ神が生み出されたかと言えばおそらく万物の根源である「無を司る何か」よりは知覚しやすいという利点があるからだろう。実際に「神」と言う言葉を用いるだけでも誰でも簡単に超越的な存在を極めてあいまいながらもイメージできるからだ。それは認知のウロボロス的限界に阻まれた「無(ゼロ)」を知覚、認識するよりははるかにたやすいと考えられる。啓示や神秘体験を全ての人間が持つことは難しい。そこで神を生み出し、神への信仰を持つことで神の意識と連結し、その神の意識が万物の根源である「無を司る何か」へ連結することを意図したのだと思われる。ただ歴史を見る限りそうした意図がどれほどの効果をもたらしたかについては疑問は残る。

 ちなみに「神に会う」というたぐいの表現は、ある個人が、①教義から生成された神の意識に接続した場合と、②「無を司る何か」に接続したものを既存の言説に従ってそれを「神」と表現した場合、③そして神の意識に接続し、そこからさらに「無を司る何か」に接続した場合、④錯覚(自然現象や薬物反応や病気)、⑤虚偽、の5パターンが考えられる。

 またおそらくは時代を経ることで社会的要因によって教義の解釈の変更がなされることで神の意識も分裂、派生していったと考えられる。当然ながら人語を介さない動物、植物、事物には神の意識は連結しえない。また一定の神に対し信仰を持つ者にとってはその神は機能し始めるのだが、その神に対して信仰を持たない者にとってはその神はほぼ機能しないと考えられる。なぜなら神は言葉や信仰を介することで連結、強化される類の意識であると考えられるからだ。言葉なき世界に神(啓示宗教の神)も悪魔も存在できないのである。そしてそうしたメカニズムは神ほどの規模ではないが呪いや幽霊などと呼ばれる現象にも同様に作用していると考えられる。呪いや幽霊、悪魔などもまた言語を解する人だけが接続できる意識の一種と考えらえる。一方で自然宗教アニミズムの場合、その神は崇拝される対象である自然現象や物体や存在が持つ意識であると考えられる。

 

キリスト教の三位一体説

キリスト教の三位一体説)

 キリスト教の教義の根幹の一つに三位一体説がある。これは簡略に言えば、精霊と父(神、ヤハウェやエホバと呼ばれる)と子(イエス・キリスト)の三者はそれぞれ別な位格をもつが実体としては一体である、というものだ。説明を読めばわかる通り矛盾的な表現であるためその理解には困難を伴う。そのためキリスト教会でも理解の対象というよりは信仰の対象とする神秘として半ば解説は放棄されているのが実情である。こうした難解な表現も前述した悟りの論考と同心円状の現象と考えられ、アルケー「ゼロ」論と万有意識論を用いれば、簡単に説明できる。

 すなわち、精霊、父(神)、子(イエス・キリスト)を超物質(「無を司る何か」)、亜物質(意識、精神、時間など)、物質(実体の存在)の関係に当てはめればよいだけである。既に説明したようにアルケー「ゼロ」論と万有意識論は、世界の根源である「無を司る何か」と物理世界にある実体の存在を両極として、その中間領域にあると思われる亜物質(意識や時間など)と結びつく形で世界や宇宙など神羅万象を形成していると考える理論モデルである。この説は別に私の完全オリジナルというわけではない。表現のされ方こそ様々で混乱がみられるものの、これは洋の東西を問わず古代の時代から概念化されてきたものであろう。

 このモデルで三位一体説を考えれば、精霊は万物の根源である「無を司る何か」であり、父(神)は中間領域にある亜物質(意識や時間など)であり、子(イエス・キリスト)は実体の物理世界の存在、すなわち生物学的、社会的存在としての人として位置づけられる。そして、それらは意識を介して連結し一体化しているが、各層においては別の姿を持つ、と説明されるのはしごく当然であろう。従来、三位一体説の理解に困難があったのは先入観として神と人、神と実体世界(物理世界)という神を最上位の存在と考える二元論的な概念が支配的であったためと思われる。


アルケー「ゼロ」論と万有意識論

アルケー「ゼロ」論と万有意識論)

 こうした考え方を西洋哲学的な文脈で言えば、万物の根源であるアルケーを「無(ゼロ)」とするアルケー「ゼロ」論と言える。つまりアルケー「ゼロ」は「無を司る何か」である。そしてこの「無を司る何か」も、物質の定義を拡大した解釈をすれば、物質の一種と考えられる。それは超物質やゼロ物質、ゼロを司る物質とも呼べるのだがこうした呼称は言語機能不全を引き起こしやすく注意が必要だろう。認知のウロボロス的限界により我々実体世界の住人にはそれは基本的には「無(ゼロ)と認識される」、もしくは「原理上、認識(検出)できない」からだ。そのため現時点では「無(ゼロ)を司る何か」と言う用語をあてたほうが適切であろう。

 そして万物の根源である「無(ゼロ)を司る何か」は実体と接続しているのだが、その両者を中間領域で接続するものが心、魂、意識、時間などであろう。これらは物質と「無を司る何か」の中間的な性質を持ち、「亜物質」や「半物質」と呼ばれるような性質を持つと考えられる。そしてそこから全ての実体(存在)は意識を持つという万有意識論の仮説が導かれることになる。

 通常、心や意識のたぐいは生物にのみ存在するとされてきた。だが実はそれが真実であるかは確かではない。心の哲学で扱われるように、私たちは自分以外の人間が自分と同じ心や意識を持っているかどうかも確かめようがないのである。「人だけが心や意識を持つ」、「生物だけが心や意識を持つ」という考えは、ただ伝統や常識に従っているにすぎないのである。そしてこうした常識を絶対視することから一歩離れて考えることができれば従来の常識では読み解くことができなかった問いも理解が可能となる。それがアルケー「ゼロ」論と万有意識論である。

 以前にたとえとして出したが、「原子をはじめとした物質の集合体である人がなぜ心を持つのか?」と言えば、「物質には心がない」という考えが誤りで「物質にも心があり、その集合体も各部分とは別の心を持つから」であろう。まず物質(存在、実体)とその根源である「無を司る何か」との中間に心や意識が層として存在し連結していると考えられる。そして「何らかの機能を持つ主体」が生まれると別の意識が生成され多層構造を持つのであろうと推察される。そして小は素粒子や原子などに始まり、物質、生物、機械、文化作品(言語、法律、文学、音楽、絵画、彫刻など)などに広がり、大は星、宇宙へと意識の空間はあらゆる万物へと多層的に展開していくことになる。ただそれぞれの主体が互いの意識を認識できないのは認知のウロボロス的限界ゆえであると説明できる。そして例外的に副鼻腔理想解放状態を経て認知のウロボロス的限界を超え始めると、自分以外の意識を知覚するようになり、その結果、古代から各地に残る宗教的概念や哲学的概念として捉えられ、それぞれの能力や背景を受けながら言語化、概念化されたと考えられるのである。

 もちろんここでいう物質が持つ心や意識は私たちが通常感じ取っている心や意識のありようとはかなり異なるものであることは推測される。概念の再定義は必要であろう。だがこれまでの概念を拡張して物質が心や意識を持ちうるとすれば悟りや啓示から端を発する現象は信仰(暗示)によらずとも理解することができるのである。

 表にしてまとめると以下の通りである。

表 宗教、哲学などに共通する世界観

タイプ

神羅万象、宇宙

備考

基本モデル

無(ゼロ)を司る何か
(超物質、空物質、ゼロ物質)

亜物質(心、意識、精神、時間)

物質、実体、存在

この説明モデルは、万物の根源を無(ゼロ)とするアルケー「ゼロ」論と全ての物質が意識を持ち、万物の根源と接続している万有意識論で構成されている。

基本モデル
(主体)

主体の根源(無を司る何か)

(認知のウロボロス的限界により
主体からは知覚しにくくなる領域

主体

一元論

無我、空    ⇔   (悟りの境地により一体化している)   ⇔   人やモノ

中間領域を設定せず、連結し一元化している
例)
 仏教(諸法無我、空の思想、色即是空、空即是色などに代表される立場)
 古代インド思想(梵我一如に代表される立場)
 汎神論
 無神論
 唯物論
など

二元論

神、神々、悪魔、霊など

人やモノ

中間領域の設定をせず二分化する
例)
 古代中国の陰陽思想
 古代インド思想(アートマン(我)とブラフマン(梵)による二元論)
 心身二元論デカルトなど)
 グノーシス主義
 イデア論プラトン
など

三元論

精霊

キリスト(実体)、人やモノ

中間領域を設定し、両極を接続している
例)
 キリスト教における三位一体説
 三才思想(天地人思想)
など

 

 

 

 


表 宗教、哲学などに共通する世界観